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インド料理のこと4-3(結) Ethnic Cuisine: the significant 'other'/Ashis Nandyを読んで

今回の投稿で、このシリーズは終わりです。読んでいく文章は、エスニック料理と飲み物からみるコスモポリタニズム(世界平等主義)の展開です。現代のエスニック料理とビールあるいはワインの組み合わせに、ナンディーは何を思うのでしょうか。

コスモポリタンのペアリング

コスモポリタニズムとエスニック料理を味覚の視点から描写しています。料理と飲み物のペアリングを通して、この思想の性格を分かりやすく説明しているので長めに引用します。

1. ビールとエスニック料理を合わせる
 北米やヨーロッパのエスニック・レストランを訪れる人の間で、エスニック料理と一緒にその国特有のビールを求める傾向が強まっている。エチオピア料理にはエチオピアビールを、日本料理には日本ビールを、というのが一般的な考え方だ。しかし、「圧倒的な」味と風味を持つ料理の場合、ビールの選択は部分的に観念的なものということは十分にあり得る。激しいタイカレーを食べる前には、シンハービール[1]の繊細な味わいを楽しもうと思うかもしれない。しかし、いったん食べ始めると、ほぼすべてのビールが同じ味になるはずだ。もしかしたら、味の濃いギネス[2]のほうが、唐辛子やスパイスの猛攻に耐えられるかもしれない。少なくとも、味覚がスタウトの個性を味わうことができる可能性はある。しかし、現代のグローバルな都市文化において、トムヤムスープにギネスビールをあわせることは、冒涜的と見なされるかもしれない。
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[1]1933年にタイで設立されたBoon Rawd Breweryのビール。
[2]1759年にアイルランドで創業したギネスの黒スタウトビール。

(Nandy2002:249-250)

2. ワインとエスニック料理を合わせる
ワインはビールとは異なり料理と同じ地域に限定されないが、例えばインド料理はスパイスが強いことから、食とグルメの専門家はアルコールを合わせるのであればビールを勧めてきた。
(・・・)しかし、グローバルな都市文化において、ワインとインド料理の相性が悪いということは、料理とインド文明を侮辱するとみなされる。そのため食とワイン分野のコラムニストたちが、インド料理に「正しい」ワインの選び方をアドバイスするようになった。

(Nandy2002:250)

地域から切り離されたエスニック料理をコスモポリタニズムから考えることの限界と不自然さというか、そういった点を書いているのだと思いますが、なかなか手厳しいですね。

続けてナンディーは、インド料理と「正しい」ワインの組み合わせに対してインド人の視点から料理と飲料の関係を以下のように述べています。

普段、食事とともに水を飲むインド人にとっては驚きだ。また200年以上前から知られていたのは、疑わしい品質のスコッチウイスキーが食事を楽しくするための究極であり、それがない場合は貧しき者のテキーラであるアラックが食事の楽しみになるということだ。

(Nandy2002:250)

インド料理には、基本的に水を、アルコールを飲むなら疑わしい品質のスコッチウィスキーかアラックをあわせる。このペアリングこそ、食が帰属する文化と料理が切り離されていない状況なのかもしれませんね[3]。一方で、この素朴なペアリングを都市のアーバンライフからみた場合、若干ノスタルジック過ぎないかとも思えてしまいます。

ここでは、エスニック料理がグローバルな都市文化=コスモポリタニズムのもとで、どのようにとらえられているかを述べています。

エスニック料理やエスニック食文化は、それらが代表する文化の象徴的な代わりとなり、ますます洗練され複雑化していると考えられる。
このような食文化は、逆説的ではあるが料理が生まれた文化や料理が象徴する文明や生活様式から、より自律的になってきている。
この動きを、ほとんどの人は物事が進むべき道であると信じているようだ。
現代社会が、多文化主義や民主主義的寛容さをしきりに口にしながら、ますます多くの文化を消滅に追いやるにつれ、エスニック料理は、より一層博物館や舞台のようになり、文化が自らの名を書き記したり、その生存を証明するための手段として、また我々の道徳心をなだめるために利用されている。

(Nandy2002)

ナンディーは、このエッセイの冒頭で一般的なインド料理がつくられるには、重要な「他(の)」料理である必要を述べました。
コスモポリタニズム=文化を平等にみて尊重する考え方によって、同様に食文化も平等に尊重され、重要な「他(の)」料理になると思われます。
その動きと平行して、世界の大都市で提供されるエスニック料理や食文化は、文化の代わりになっている。むしろ、現地の文化や食文化から離れて自律的になっており[3]、いずれその文化が消えたとしても、料理はその文化の替わりとしてあり続けるだろうと綴っています。

以下、感想

このエッセイは本気で読むべきなのか、どういった態度で読むべきなのかわからなくて、初めて読んでいるとき笑ってしまいました。

特に辛いタイカレーと繊細なシンハービールの味は合わない。ギネスのほうがましかもしれないが、コスモポリタニズムのもとではタイカレーとギネスのペアリングは神への冒涜と言われるかもしれない。
とか
インド料理に合うワインがないとは言うことはできない[4]。しかし、現地の人にとって水が普通で、品質の疑わしいスコッチウィスキー、アラックが良い食事になるとか。

こうした今まで知らなかった新しい考え方が書かれていたためだと思います。

あらためて、多文化言語の英語から情報を得ることができないため、日本語で書かれた本やエッセイを読むだけの自分の知識と英語圏で交わされている文化に対する意識にズレがあるのかもしれないと感じました。

私は自分自身が現代人であるか、はたまたコスモポリタンかどうか分かりませんが、料理が生まれるきっかけである地域や国の文化は尊重されるべきだと思っています。

他方で、このエッセイから伝わってきたのは、エスニック料理は非エスニックな人や場所など、外からのまなざしや言説からつくられているのではないかということでした[5]。それは、このテキストに表れていると思います。

誰もそう呼ばないが、昔からエスニック料理はあった。他(者)の料理は常に生活の一部であった。 耕作や階級の指標として、社会的地位の指標として、あるいは秘教的な儀式として。

(Nandy2002)

この指摘は、文化の中にある料理を端的に描いています。しかし、これらが
都市を中心とした場所で人々に認識されることによって、現代のエスニック料理となっていることを、他(者)の料理という意味を、ナンディーは教えてくれているのかもしれないですね。

自分の学びとして、文化から自律的になったエスニック料理の事例や、文化的な料理は現地以外に存在することはできないのかといった、異国でつくられるエスニック料理のことを掘り下げて考えてみたいと思いました。

読んでくれてありがとうございました。

※主題でもある「the significant 'other'」を重要な他(者)と意訳しています。これに関して、もっと良い訳を知っている英語に詳しい人いましたら、助言いただけたらうれしいです。

脚注
[3]自律的な動きの例として、エスニック料理が「大都市で提供されるエスニック料理や食文化」の形で現地の食文化とは違う新しい食文化になっていることを想定しました。こうした動きは、生産者や消費者との関わりによってさまざまな形があると思います。Nandyは食べものと飲料のペアリングをあげていますが、私は日本へのミールスの伝わり方と言説に、料理の自律的な傾向を感じています。これについては後日記事にしたいと考えています。
[4]余談ですが、料理によって赤ワインではシラーやガリオッポは合うなってときがあります。でも、これからはウィスキーと合わせてみたいです。インド・ラクナウのホームパーティーでウィスキーが置かれていたのを思い出したので。
[5]外からのまなざしが文化をつくるという主張は古くから指摘されている言説です。詳しくは(山下1996)参照。

参考文献
Nandy, Ashis. 2002 Ethnic Cuisine: the significant 'other'.India International Centre Quarterly Vol. 29, No. 3/4, India: A National Culture? (WINTER 2002-SPRING 2003), pp. 246-251.India International Centre.
山下晋司(編)1996「「楽園の想像」ーバリにおける観光と伝統の再構築」『観光人類学』新曜社。


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