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灰谷健次郎 『砂場の少年』にみる、「よそ者」の原理

 いわゆる「若者・バカ者・よそ者論」が、世に知られるようになって久しい。
 2014年頃からの地方創生ブームにのって、地方都市においていくつもの地域活性化事業が行われてきた。
 それらの事業の多くは、地方の地域を活性化させるには至らず、日の目を見ることはなかったのだが、いくつかの事業は成功し(何をもって成功と呼ぶかは難しいが)、多くの視察者を受け入れ、研究・考察や、取材記事などで社会に知らされた。
 その中でそれらの成功した地域活性化事業のモデルパターンとして、事業のコアとなっている人材に「若者・バカ者・よそ者」と言われる人が関わっており、彼らの力こそがその事業を成功に導いた鍵となっているとされたのだ。
 曰く「若者・バカ者・よそ者」には、それまでその地域に根付いてきた常識や縁故、権力構造とは無縁であるがゆえに、それまでにはない新しい発想が生まれ、これまでなかなか動かなかった人たちをも巻き込んで事業を推進することができた。それが閉塞していた地方の地域に風穴を開け、活性化を推進したのだ、と。
 閉塞し疲弊しきった地方都市では、行政が、市民団体が、町内会が、我先にと「若者・バカ者・よそ者」探しを始めた。
 周りには、その土地に何十年と住む年老いた人たちしかいないのに…
 そうとわかると、ついには空き家をリホームして無料で貸し出したりもした。よそから来た若者が働く場所もないのに…
 そうやって、いくつもの事業が、人知れず葬られていった。

 灰谷健次郎が小説『砂場の少年』を書き下ろしたのは、1990年(平成2年)である。
 この年は後年、バブル最後の年と言われるが、当時の世相は拓銀が崩壊した後のような暗く沈んだ時代ではなく、首都圏を中心にまだまだ好景気を謳歌した、活気のある時代だった。
 学校教育の現場では、『砂場の少年』でも若干触れられている通り、80年代初頭から各地で校内暴力やいじめが大きな問題となり、「学校」という閉鎖的な空間で起こっている様々な問題が表面化し、世間へも顕在化した時代であった。
 80年代から続いた校内暴力やいじめの問題、学力偏重への懐疑論、バブルの崩壊と失われた10年、それらの状況が重なり合って、2000年代のゆとり教育へとつながっていく。

 それはさておき、『砂場の少年』の初版が1990年ということは、灰谷がこの小説で描いた学校教育の姿というのは、おおむね80年代後半の姿と考えてよいだろう。
 灰谷が学校現場を描いた小説というのはいくつもあるが、代表作『兎の目』と並んで、この『砂場の少年』は、学校を主題とした作品として描かれており、灰谷自身が教師として経験したことを基底としながら、それぞれの時代の社会問題を学校現場を通して浮かび上がらせている。
 しかし、灰谷が学校現場を通して描いた最大の問題というのは、当時の世間で言われているような校内暴力やいじめというものではなく(もちろんそれも描かれてはいるが)、学校そのものの問題、いわゆる学校の「閉鎖性」や「特殊な権力構造」といった問題だった。
 学校の閉鎖性とは、いわゆる学校の中で起こっていることが社会に開かれていないことである。つまりは「学校と社会の関係性」の話だ。
 また、特殊な権力構造の中には、教師と生徒の関係の中での権力構造、生徒同士の権力構造、教師間の権力構造の三つがある。
「学校と社会の関係性」「教師と生徒の関係性」「生徒同士の関係性」「教師同士の関係性」
 灰谷が描く学校教育の問題は、おおむねこの4点の関係性に収れんされる。

ここで気づくことがある。
「閉鎖性」「特殊な権力構造」、この二つの問題から派生する四つの関係性の問題というと、そっくりそのまま、ここ10年あまりの地方都市の問題と一致するのだ。
 人口減少が進む過疎の地方は高齢化率も高く、大都市や先進的な業界で進んでいるイノベーションとも隔絶されている。人の出入りも比較的少なく、若者は進学や就職を機に都市部へ出ていく。結果、残っている人は長年その地に住み着いている人たちばかり、という「閉鎖性」の問題。
 閉鎖的で流動性がないことの結果、そこに住み着く人の中では長年積み上げられてきた「特殊な権力構造」が温存されている、という問題。
 つまりは、「地域と社会との関係」が隔絶され、その地域の「権力者と一般住民との力関係の固定化」「一般住民同士の関係の固定化と相互監視」「権力者同士の権力闘争と既得権益の囲い込み」という問題である。
 これら地方都市の問題というのは、灰谷が描いた学校現場の問題をトレースし、色だけ塗り替えたような姿なのだ。
 灰谷自身が教師として、実際にどのようにこれらの問題に立ち向かったのかは、うかがい知ることはできない。
 しかし彼は、その後小説家として、自分が思い描いたそれらの問題の解決法を、彼の作品を通して提示しようとしてみせた。
 そして、その手法こそが、「よそ者」の活用だったのだ。

 小説『砂場の少年』の主人公は、葛原順という新任臨時教師だ。
 葛原は放送局のディレクターを辞め、まったくの畑違いの中学校教師としてやってくる。そこには妻との関係から起こった動機もあるのだが、その関係性については後述することとする。
 葛原は赴任早々、ある事件に遭遇する。職員室に男が怒鳴り込んでくるのだ。曰く、ある教師が一つのアイロンを買うのに4回も業者であるその男を呼び出し、何かにつけて文句を言うのに辟易したという。学校とそこでしか働いたことのない教師の閉鎖性を、物語の最初に描いてみせるのだ。
 そしてそんな閉鎖的な学校にやってきた「よそ者」葛原順は、いきなり札付きと呼ばれるクラスの担任を受け持たされる。

 この『砂場の少年』のように、学校や地方などの閉鎖的な場所に「よそ者」を入れて物語を動かしていく手法を、灰谷は何度も使っている。
 代表作『兎の目』では、新卒の新任教師 小谷芙美が、そして筆者自身は灰谷作品の最高傑作と信じて疑わない『海の図』においては、環境破壊が進む瀬戸内海の小さな島に東京から転校してきた高校生秀世が、閉鎖的な環境を少しずつ動かし、物語を展開していくために重要な役割を果たすのだ。

 『砂場の少年』においては、そんな「よそ者」の葛原が、内側の学校教師ではできないような発想とアイデア、行動力で、いくつかの問題に風穴を開けようとしているし、実際に少しずつでも問題が好転しているかのようにも見える。
 国語の教科担任である葛原は、授業に教科書にはない詩やマンガを取り入れたり、「特番」と呼ばれる教科書以外の教材を使った授業を行ったりする。
 担任以外の不登校の生徒の家庭を訪問したり、体罰をふるった教師と生徒の話し合いの場を持ったり、果ては生徒たちを無限塾と言われる農場へ連れて行ったりもする。
 これらは「よそ者」である葛原だからこそできることのように描かれ、それによって学校という場所からはぐれてしまいそうになっていた生徒たちをつなぎ留め、教師のなかにも葛原の意見に賛同したりする者もあらわれる。
「ぼくは教師になってまだ日が浅いけれど、教師という職業には人間を聖職者にしてしまう麻薬のようなものが潜んでいるように思えて仕方ないというのが、ぼくの偽らない感想です」
(灰谷 健次郎. 『砂場の少年』 角川文庫 Kindle の位置No.2984-2987)
 これは、職員会議の場で重延という教師が発した言葉だ。良心の告白とでも言おうか。重延は葛原の登場によって巻き込まれ、その風穴を大きくする役割を担う。そしてこの言葉は、灰谷自身の良心の告白とも受け取れる。

 葛原が担任するクラスの不良少女 神原巳知子は、いわゆる「バカ者」枠であろうか。このテキストでいう「バカ者」とは、勉強ができない、知識がないという意味ではなく、いわゆる既存の常識の枠にとらわれない、従わないという意味である。
 巳知子は葛原にも心を開かない。実際に『砂場の少年』において巳知子自身が口を開くことは、ほんの数回しかない。そのかわり、近所の焼き鳥屋の若い女性店主とその娘 やすこに代弁させる。
 そして巳知子は、『砂場の少年』におけるもう一人の主人公 西文平ともトラブルを起こす。トラブルの詳細は語られないが、トラブルのあと文平を訪ねた葛原に、文平はこう言う。
「……ぼく……ああいう友だちに劣等感を持っていますから……」
(灰谷 健次郎 砂場の少年 角川文庫 Kindle の位置No.1697-1698)
 文平は、巳知子に対してどんな劣等感を持っていたのか。はっきりとは語られないが、そのヒントとなる出来事を、灰谷は物語の最後に持ってくる。葛原と巳知子、巳知子の代弁者にも立ち会わせたうえで。
 文平は、この出来事の中である告白をする。それは昔についた嘘とそれによって傷つけてしまった人への懺悔なのだが、その嘘は親と子の関係性、子ども同士の関係性から逃れたいのに、自分の勇気のなさでそこに留まってしまっていることが原因であると読み取れる。そして、そのことに対する自己嫌悪と、その関係性から外に脱出した巳知子への劣等感、と理解すると納得がいくのだ。
 そして、この出来事の中で、巳知子は代弁者の口を使わずに、二度自らの言葉を発する。
「神原巳知子が
「ありがとう、おばあちゃん」
といった。葛原順も西文平も知らない優しい声だった。」
(灰谷 健次郎 『砂場の少年』 角川文庫 Kindle の位置No.4446-4447)
「……うち……いつもひとりで草笛吹いていたとき……お金や物で……」
神原巳知子は遠いところを見ていた。
「…… いじめる奴におべっか使っている自分の……後ろ姿、見ててん……とても……さびし……かった……」
(灰谷 健次郎 『砂場の少年』 角川文庫 Kindle の位置No.4487-4489)

 筆者が最初にこの『砂場の少年』を読んだのは、高校1年生の時だ。
 その時には、「正しさ」とは何なのか、他人に作られた「正しさ」を信じて生きていくことは正解なのか、ということについて考え、その後の生き方に影響を与えられた。
 30年たち、再度この小説を読むと、この小説で灰谷が書きたかったことのひとつは、閉塞した集団とそこからはぐれそうになっている人たちの包摂ではないだろうか。
 そして、その手法として、いわゆる「よそ者」が起点となって閉塞した集団に風穴を開け、それによって人々を巻き込みながら包摂していくことを目指していたのだ。
 灰谷は、学校現場という舞台で「よそ者」を使うという手法で、自分の思い描く理想を、仮想的に実現してみせようとした。
 しかし、この手法はいくつかの課題が隠されているように思えてならない。
 それも、この手法が必然的に抱える課題が見え隠れするのだ。

 葛原は、生徒たちをボランティアとして無限塾へ連れていく。
 無限塾で、ある出来事が起こる。
 鶏の解体を子どもたちに見せたとき、西文平がそのことに対して否定的な意見を言う。ミーティングでは否定、肯定どちらの意見も出るが、この場で葛原はほとんど発言しない。
 この出来事の描写には、関西特有の被差別部落に関する灰谷の想いが背景としてあると考えられることに注意が必要だが、なぜ、この場面では葛原の発言がほとんどなかったのか。それは意図的に発言しなかったのか、それとも発言できなかったのか。
 無限塾は、葛原が放送局を辞めた後に仲間と共同で設立した集団で、学校では「よそ者」であった葛原が内側の人間ともとらえられる場所である。そして、この場での「よそ者」は、文平をはじめとする生徒たちである。
 無限塾の代表、黒田猛がこんなことを言ったと葛原が言う。
 「ボスはいうんだ。おれの意見はある種の正義だから、たいていの人間はその前で黙ってしまうが彼 は妥協しなかったって」
(灰谷 健次郎. 『砂場の少年』 角川文庫 Kindle の位置No.4246-4248)
 これはある意味重要な発言だ。以下のように受け取ることができるからだ。
 それは、無限塾という集団にも権力構造が存在し、そこで通じる正義も存在する。そして、その権力構造と正義の中では、たいていの人間は黙ってしまうのだ、と。
 そういう見方をすると、やはり葛原は、意図的に発言しなかったのではなく、発言できなかったのではないか。なぜなら、彼は、この場では、無限塾の正義と権力構造にとらえられた内側の人間だからである。

 このことから読み取れるのは、人間は立場と場所によって、内側と「よそ者」を入れ替えながら生きている、ということだ。
 ある人間が改革者として「よそ者」を演じられたとしても、立場と場所が変われば、その者はあっという間に内側の人間になってしまうということだ。
 そしてこの問題は、さらに根深い問題へとつながっていく。

 葛原が放送局を辞め、無限塾からも出て教師になったのは、妻の病気が関係していることが示唆されている。
 葛原の妻 透子は以前教師として勤務し、自分のクラスで起こった事件をきっかけとして神経症を患う。
 葛原は妻を見舞ったりもするが、どうしても分かり合えないぎくしゃくとした関係の中で過ごしている。
 しかし、葛原が教師として勤め始め時間がたってきたとき、こんなことが起こる。
 妻を見舞った元の同僚が「透子さんの健康については、私たちも責任を感じています」と言ったとき、葛原はそれを遮るように「妻は被害者ではない、絶対に」と言い、こう続ける。
 「このひとが傷ついたとしたら、あの女子生徒に何一つ添うことのできな   かったという自分自身への 無力感 が、自らを傷つけたというべきでしょう」
(灰谷 健次郎 『砂場の少年』 角川文庫 Kindle の位置No.3358-3359)
 それを聞いた透子は驚いたように、こう言うのだ。
 「あなたは人の領分に属することは絶対に口出ししない人だった。 だから、とても妙に感じたわ」
(灰谷 健次郎 『砂場の少年』 角川文庫 Kindle の位置No.3376-3377)

 『砂場の少年』の中で主人公葛原は、非常に客観的な人物として描かれる。それは彼の「先入観を持って子どもたちを見ない」というポリシーから来るものとも考えられるが、違った見方をすれば、彼の「よそ者」感が醸し出すものともとれる。
 葛原は、学校という組織において「よそ者」であるおかげで、学校が持つ正義や特殊な権力構造から離れ、彼が持つ発想やバイタリティーを発揮する権利を持たせられた。
 それと引き換えに、彼が持つその客観性が、妻 透子への共感のなさとして、彼女を苦しめる原因にもなっていたのだ。
 つまり、「よそ者」が独自に持つ客観性は、他者への共感を同時に併せ持つことが不可能であるために、ある時は功となり、そしてある時は罪となる性質を、原理として抱えている。
 「よそ者」が内側の人間を巻き込んだはいいが、その巻き込まれた他者への共感を示さなかった場合、どうなるか、容易に想像がつく。またその人は離れていってしまうだろう。

 『砂場の少年』で描かれている物語がどのくらいに期間の出来事なのか、確定することはできないが、最後のシーンにアジサイが出ていることから、おそらく6月~7月あたりであろう。
 そう考えると、この物語は長くても3カ月程度の出来事と考えられる。
 その中で葛原は「よそ者」として颯爽と現れ、学校組織に小さくない風穴を開け、はぐれそうになっていた生徒たちを包摂しかけている。
 見事としか言いようがない。
 しかし、葛原は変わりつつある。
 透子に対して、今までもっていた客観性が失われかけているのが見て取れる。
 それは彼が、徐々に「よそ者」としてふるまうことができなくなっていることを暗示している。

 灰谷が描く学校現場でも、また、過疎化の進む地方の地域活性化でも欠かせないと言われた「よそ者」には、彼らが持つ客観性が最大の武器となって大きな力を作り出すことがある。
 しかし、彼らが持つその武器は、立場と場所によって内と外が容易に入れ替わってしまうということ、そして、「よそ者」として長くはとどまっていられないという問題を内包している
 それが『砂場の少年』において描かれた「よそ者」の原理なのだ。

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