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愛という贈り物ができることは心が豊かな証拠なんだ


最近気づいた。10代、20代前半の頃は「若い」や「可愛い」だけで、ある程度もてはやされていたけれど、20代も後半になるとそうではないということに。

最近魅力的だなぁと思う人はみな、自分以外の他者への愛が凄まじい。

多分、ちょっと前、20代前半まではあまり感じなかった。ありがとうをちゃんと言うとか、常識的な範囲で気を遣うとか、友人への配慮というのはそんなものだと思っていた。



愛について考えていると、ふと、以前にもそんな記事を書いたような気がしたので振り返ってみた。

少し前の私は、他人にとても気を遣うけども、それは「迷惑をかけちゃいけない」「嫌われちゃいけない」みたいなどちらかというと後ろ向きなものだった。それは”愛”ではないだろうし、むしろそれは信じていなかった。
プレゼントも気持ちよりもどちらかというと仲がいいから形式的に…というほうが近い。


そんなにも冷めていたのは、人間の感情なんて移ろいやすいのはよくよく感じてたからだと思う。人は簡単に裏切るし、裏切られる。それは自分もそうだし他の誰かもそうであって、「裏切る」というと言葉が強すぎるけども、気持ちなんてすぐに変わるものだ。だから期待なんてしない。

だけど、この記事に出てくる友人は会っているときはもちろん、文章のやり取りでさえも愛を感じる。私のように「気を遣っている」のではなく、本人の心の中で思っていることを素直に相手に伝えているだけなのだろうけども、その「すなおさ」が愛なんだろうなと感じる。


そのまっすぐな愛を受けていると、私自身もやっぱりそうでありたいと思うようになった。私は話下手でもあるので、最初こそ意識的には「伝えるぞ」と思っていたけども、慣れていくと思っていることがするすると出てくる。

愛というものに冷めていたとはいえ、心の中にはちゃんと持っていたものを相手に伝えるだけだったから嘘も偽りのなくって、逆に言葉に出して自分の気持ちを再確認することだってあった。結局、私は人を信じたいし、人が好きだから。

相手も同じように思ってくれることを期待せず、ただいつも感じている感謝であったり、相手の好きなところだったりを伝えるという私なりの愛の伝達をするようになってから、取り巻く人間関係は心地よいものになってきている。
その間に価値観の変化から、一緒にいると心が疲れてしまう友人とは距離をとるようになっているのも多少影響はしているだろうけども、人に対してマイナスな気持ちになることが少なくなったし、幸福の源泉にひたひたになっているなと常々思っている。


そして特に最近、自分以外の誰かにお金を使うことがこんなにも豊かなことなのかと気づいた。

昨今の物価上昇によって生活費は上がるし、将来は心配だし、それも相まって貯金・投資ブームが凄まじい。一人暮らし時代のときは、自分の好きなものを買いたいけども貯金もしたい、できれば少額の出費も懐には痛いと思っていた。だから、プレゼントという「使ってもいいし使わなくていい」出費ってちょっと心が複雑になっていた。

少し余裕が出てきた今、ようやく相手を思って選ぶ時間も、贈ったときに喜んでくれる顔をみるのも、心から嬉しくなってきた。ちまちまと自分のために使えるお金はどれくらいだろうと計算するよりも、「これが似合いそう!」と値段を見ずに買うほうがよっぽど楽しい。

そして、何気ない日に大好きな人から届いた贈り物に、プレゼントの選定や梱包が私のために時間を使っていること、まず贈ろうと思うことが嬉しい。


物を与えるプレゼントにしろ、言葉だったりちょっとした気遣いだったりの目に見えないものにしろ、自分のキャパシティを相手に使うこと、言い換えれば愛を与えることは、本当に豊かじゃないとできないことなのかもしれない。

下心ありきや上辺ならいくらでもできるだろうけども、それは本当の愛じゃない。

拗らせてきたから気づくのが遅くなってしまったけども、愛のあるこれからの人生はもっと楽しくなりそうだな。


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