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ただの愛。

 出エジプト記23章5節「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起 こしてやらなければならない。」


私はこの言葉の意味を理解することに時間がかかった。最初に読んだとき、あなたを憎んでいる者ではなく、あなた「が」憎んでいる者に見えたのだ。そして、聖書の文では者のろばが下敷きになっているにもかかわらず、私の脳内では下敷きになっていたのは「者」そのものだった。無意識のうちに私は、私が憎んでいる者を荷物の下敷きにしていたのである。胸の内に秘めている思いが知らず知らずのうちに投影されているようで少し恐ろしい。勘違いに気づかぬまま「たとえ憎んでいる相手でも助けてやりなさい。心が伴っていなかったとしても、教えを信じて行いを続けていれば、いずれ本当の愛が芽生える。」そのような意味だと解釈していた。危ない危ない、同じことが起きないよう、一言一言気遣いながら読んでいこうと思う一方、私の解釈のほうが自然じゃないか?そんな思いが生まれてきた。あなたが憎んでいる者ではなく、あなたを憎んでいる者、そして、助けるのは憎んでいる者ではなくその者のろば。考えれば考えるほど、私にはこの文章が不思議に思えてきた。私が勘違いしたようなあなたと憎んでいる者二人の間だけの関係性でも教えはつくれただろうに、どうしてろばという第三者の存在を加え、あなたを憎まれる側にしたのだろう。



 「愛」と聞いたときに私が一番に考えるのは、誰かからの愛もしくは誰かに対する愛である。自分からの自分に対する愛のような、一人の人間の中で完結する愛についても考えることが出来る。たとえば、私は、自分の好きなアーティストのライブを見ると、彼らからのファンに対する愛とファンからのアーティストに対する愛、両方を感じる。この場所には「愛」があるなぁと幸せになる。もう一つ例を出すと、一年前、友達の20歳の誕生日にサプライズをしたり手紙を書いたりしたのだが、そういうことをやりたいと思えたのは私の中に友達に対する愛があったからだと感じている。一つと言っておきながら難なのだが、人の写真を撮りたいと思った時や、撮っている時にも普段の日常では感じたことのなかった愛が溢れ出ているという感覚を持ったこともある。こうやって客観的に自分の行為を見ながら文字にしていると、この文章を読んだ人に本当に愛なの?と思われてしまうような気もするが、他の人には嘘だと疑われたとしても、私にとってこれらの例は確かに愛を感じるものだった。このように私が体験してきた愛は、誰かに対する愛であって、愛があってこその行動だったように思う。ここに勘違いの原因が表れている。



 神がここで伝えている「愛」とはなんだろう。私には今まで書いてきた愛とは全然違うもののように思える。あなたにも彼にも、ろばにも。誰の視点から見ても、誰に対しての愛も感じられないのは私だけだろうか。しかし、この時点で愛はなくとも一緒にろばを起こすことで、そこに愛が生まれるのだと神は言っている。そしてここに生まれた愛は、私の考えていた誰かに対する愛ではなく、「愛」そのものが独立して存在しているかのような、誰のものにもなっていないような、そんな存在であるように思う。



 この章で神が伝えたい愛の正体の一部分を掴んだような気がしている。それでも私は、その愛を感じたエピソードを一つも思い出すことが出来ない。経験をしていないのか、忘れているのか、それとも「誰かに対する愛」にだけ目を向けていたからなのか。原因は定かではないが、ただ振り返っても振り返っても愛が生まれることがゴールになっているものの記憶がないのだ。愛せない人間に、神は「愛」そのものの正体を知ってもらうために、まずは生み出させることから始めたのだろうか。そうすることで愛の正体を知れば、愛せるようになると信じていたのではないだろうか。愛とはなんだろう。どうやって人のことを愛すのだろう。私たちはそんな言葉が行き交う世界に生きている。その答えを知るために、まずは、誰のものでもない「ただ」の愛を、誰でもない誰かと一緒に生み出してみたい。



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