見出し画像

ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

カラフルな表情をもつ人は魅力的だ。同じように、エピソードの豊富な物語を読むのは嬉しい。この本はまさに、よく笑い、よく泣き、よく眉根を寄せる小説だった。そういう本って好きである。

《分かりました。無理やりナスを食べさせないのでしたら、あなたと結婚します》。

ナスと結婚が並んでいる。ナスそのものが、結婚を決意させるわけはない。けれど、このひと言は忘れがたい。これがもし「決して浮気をしないのでしたら」であったら、この忘れがたさは生じないだろう。いささか場違いな言葉、だからこその魅力がある。

あるとき、カモミールのハーブティーを一口飲むとそれをつき返して、一言言った。《何だこれは、窓の味がするぞ》。彼女と女中たちは煮立てた窓など飲んだことがなかったので、それを聞いてびっくりした。しかし、いったいどういうことだろうと思ってそのハーブティーを飲み、たしかに窓の味がすると分かって納得した。

つい笑ってしまうような一節だ。窓の味のするハーブティー。いったいどんな味なのか、まるで想像できない。けれど、みなが納得しているからには、たしかに窓の味がしたのだろう。こうした幕間の会話は、気持ちをリラックスさせてくれる。

そんな逸話たちに彩られながら、本編、というか中心となる物語が進む。19世紀末から20世紀頭のコロンビア。コレラの蔓延と、延々と燻る内戦の時代。疫病と内戦。いずれも死に繋がるもの、生の苦痛を増すものだ。タイトルの「愛」はそれらに対置されているのか?

そうかもしれない。けれど、私は別の感じを抱いた。対立というより、乖離。愛とそれらの出来事が無関係であるような感じだ。

うれしさのあまり舞い上がったフロレンティーノ・アリーサは、午後の間中バラの花を食べながら手紙を一語、一語、何度も読み返した。読めば読むほど食べるバラの量が増えていき、真夜中ごろになると何度も読み返し、あまりに沢山のバラを食べたので、母親は子牛にするように彼の頭を抱えて、ヒマシ油を飲ませてやらなければならなかった。

意中の人からの手紙に喜ぶあまり、バラの花を貪る青年。これも魅力あるエピソードだ。別の場所では、彼はオーデコロンの飲み過ぎで吐いたりしている。

愛に夢中になっているとき、世間で何が起きていようと気にならない。内戦が続いていることも、疫病が蔓延していることも知っている。知りながら忘れてしまう。忘れなければ、真夜中までバラを食べ続けたりはできないだろう。

愛は、きびしい時代の痛みを和らげる鎮痛剤だ、と言いたいのではない。結果的に「痛み」を和らげることもあるだけで、愛は「なにもかも」を和らげてしまう。

《愛する人が死ぬときは、身の回りのものもすべて一緒に死ぬべきだ》という漠然とした考えが頭に浮かび、思わず体が震えた。

道連れにされるべき「身の回りのもの」、それはかつて「愛する人の身の回りのもの」として、大事にされていたはずだ。そうした思いが、愛着が、ふと、忘れられる。「思わず体が震え」てしまうのは、それがやはり思い出深い品々だからだろう。

巷間の話題。自分の過去や思い出。そうした外界の出来事が、重みを失う。心が世間から遊離する。愛の対象以外のものへの執着、関心が和らぐ。遠のく。

先に述べた「乖離」「無関係」の感じとは、こうした感覚だ。だから『コレラの時代の愛』というタイトルを、私は「コレラの時代であろうと関係なく」というニュアンスで読んでしまう。「コレラの時代に立ち向かう」とか、「コレラの時代にあっても力強く」ではなく。

何かを打ち倒す力のでも、何かに耐える力でもなく、影響を無効にしてしまう力。この「無化する力」が、愛のもつ力なのではないか。この小説を読んで、私はそんなことを考えた。

バラの花を貪るとき、常識や合理的な判断は遠のいている。タカが外れている。愛が理性を無化している。

合理性の無化は、利他的なふるまいを可能にするかもしれない。打算によってではなく、ただ純粋に、感情に突き動かされて、誰かのために行動すること。個人的には、自己犠牲を全肯定はできない。けれど、そこに尊さを感じてしまうことも、また否定できない。

けれど、そうした利他的な愛の仕事は、そのまま悪魔的なものへと反転しうるのではないだろうか。利己的計算が無化されるとき、道徳心もまた無化されるのではないか。良心の痛みや罪悪感も遠のくのではないか。そうしたとき、残酷なことをするのは難しくない。純粋に、自発的に、何の見返りも求めない残酷さ。

なにも、コルキスの王女メデイアのような大げさな残酷さの話ではない。ただ、愛のために行われるのは、尊い自己犠牲だけではないはずだ。理性が無化されたとき、人は愛のために、なんだって差し出してしまう、差し出せてしまうのではないか。他者や、他者の愛するものであっても。

船長はフェルミーナ・ダーサに目を向けたが、その睫は冬の最初のきらめきをたたえていた。次いでフロレンティーノ・アリーサに目を戻すと、その顔からは揺るぎない決意と何ものも恐れない強い愛が読みとれた。限界がないのは死よりもむしろ生命ではないだろうか、と遅ればせながら気づいた船長は思わずたじろいだ。

ここにある「何ものも恐れない強い愛」とは、「何を犠牲にすることも厭わないほど強い愛」と読み替えることもできる。もしも必要が生じれば、この「船長」も、その船も、フロレンティーノ・アリーサはためらうことなく差し出すだろう。愛のために。他者を痛めつける暗い悦びを求めてではなく、ただ、愛のために。

実際、この船の指揮権は奪われつつある。フロレンティーノは、恋人との船旅をいつまでも続けようとしている。いつまでも。この愛を湛えた目の持ち主は、自らの死すべき定めすら忘れているかのようだ。脅しや暴力によってではなく、この確信に満ちた「揺るぎない決意」のある眼差しによって、船を半ば掌握している。

この恋人たちは、これまであらゆる障害を無化することで生き延び、この場面に到達した。愛によって。その力の途方もなさが、船長をたじろがせる。読んでいる僕もひるむ。彼らは本気だし、その力は本当なのだ。

愛は途方もないことを成し遂げさせてしまう。バラを食べるだけでもなかなか大変なことだけど、この物語ではそれ以上のことが起こる。それはたぶん、愛のもつ素晴らしい側面だ。でも、素晴らしいだけではなく、おそろしい面もある。読み終えたあと、そんなことを想像してしまう。そういう本だった。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?