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「決断の主体」を空席にした

『奇跡講座』学習者であれば

その理論体系として「決断の主体」というコンセプトと

「聖霊の思考体系」or「自我の思考体系」

のみが、唯一無二の真に可能な選択だ、という

コンセプトに出会う。

しかも、それは、無意識のうちに今もどちらかを毎瞬間選択しているのだと説明される。

そして、私たちは、まだ意識的に「聖霊の思考体系」を選び直すことが出来ない心の決断の力を使えない状態で、

今時点では

どちらの思考体系を選ぶのか、を

自由自在には選択する力を使えない状態になっていて

無意識のうちに、ほぼ99、999%は「自我の思考体系」を毎瞬間選択し続けたままでいる、とも説明される。

つまり「決断の主体」を空席にして

真の選択は出来ない状態において

この幻想の世界の中に幸せや安堵があると信じ

探し続けてきたわたし達は

ある時、ふと

手に入れたと思った幸せや安堵が、どれも偽物や気休め、移ろいゆくもの、儚いもの、脆いものだったことに気づく日が必ず、個々人のタイミングで来る、としかいいようがない。

それは、大切なものを無くした経験や、どうしても欲しかったものを諦めた経験がある必要がある、とも言えると、私は、個人的に思う。

かつて幸せしかなかった私から、幸せの座を哀しみと憎悪が奪ったその瞬間、というようなニュアンスの表現が『奇跡講座』のテキスト編にあるが、そのような実体験を一度でもしていれば、あとは、そうではない別の道を求める準備はOK!のように思う。

毎日、毎分、刻一刻、あなたは恐怖の時間が愛の座を奪ったあの一瞬を再び生きているだけである。

『奇跡講座』テキスト編 T-26.Ⅴ.13 

いつも、そんな恐怖に恐れ慄く体験ばかりを、人を変えて、品を変えて、状況を変えて、内容においては、同じ「苦しみの体験」「戦慄の恐怖を感じる体験」を、し続けているだけ、『奇跡講座』のいうところの、「無益な旅を今この瞬間もしている」というのは、今の時点では、受け入れられなくとも。

真実の愛や、真実の幸せがあるのならば、体験したい!と思う日が、誰にでも、いつかは、くる。

「もっと別の道があるはずだ!」と。

いつかそのことに同意する日が。

だから、他者がどう生きていようとも

何の問題もない。

『奇跡講座』の学習をするものならば

「決断の主体」として

内なる平安を選び直すのか?

それとも

これからもこの幻想の世界の中に

偽物の、代替の、妥協した幸せを探し続けるのか

その自由意思は、全ての人に、

聖霊によって、もちろん!認められている(許可されている)ことを咎めずに見ていき、

「投影」に気づき

「自我との同一化」をらそうすることを

「もう望まない」と

「真理の否定」を否定することによってのみ

「自我の取り消し」が聖霊によって為され

全てを受け入れて包み込む愛となっていく道にもなると思う。

咎められることもないし

裁かれることもない。

究極的に

自分自身を咎めること、裁くことが出来るのは

「決断の主体」を空席のままにして

唯一無二の選択のうちから

「自我の思考体系」を選び

「自我との同一化」をして深刻になった

笑うことをわすれた自分自身だけ、です。

すべてが一なるものである永遠の中に、一つの小さな狂った考えが忍び込み、その時点で神の子は笑うことを忘れてしまった。彼が忘れたとき、その考えは深刻なものとなり、達成することも、実在性ある結果を生むことも、どちらも可能なものとなった。

『奇跡講座』テキスト編T-27Ⅷ.6:2-3 

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