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有楽町の地下で、逢いましょう

※森見登美彦『熱帯』についてのエッセイ(2割妄想)です。こちらを先に読んでも支障がない程度のネタバレを含みます。

夜のおとずれ

汝にかかわりなきことを語るなかれ
しからずんば汝は好まざることを聞くならん

森見登美彦『熱帯』

目の前がぐらりと傾いたときは、のぼせたのかと思いました。

まだ湯船には2分ほどしか浸かっていないのだからそんなはずはなく、少しして地震が来たのだと理解しました。

まだしっかり温まっていませんでしたが、とりあえず上がることにして、頭を拭きながらテレビをつけると、福島県と宮城県で震度6強を観測し、既に津波も到達しているとのことでした。

「宮城県…」

大学生だった2年前、目指していた観光業界の求人は緊急事態宣言が発令されたあたりから急激に減少し、完全になくなる前に僕のやる気がなくなって、今はなんとなく学生時代のバイトを続けています。

当時、僕はサークルでバンドを組んでいました。サークルのぬるっとした雰囲気に馴染めずにすぐにやめてしまいましたが、今でも仲良くしてくれている元メンバーの女の子がいました。

彼女の就職先が宮城県だと知ったとき、松島の旅館を志望していた僕は激しく嫉妬しました。でも今は…。

"大丈夫?"

この1通のメールから、僕らは久しぶりに連絡を取り合うことになります。

彼女は初めての震度6超えに驚きながらも、幸い被害は少なかったようです。

宮城県はどうかと聞くと彼女は、京都が遠くなってより神聖なものに感じられる、と言い、まだ森見登美彦が好きなのだなと思って安心しました。

彼女は13歳から森見登美彦という小説家を信仰していて、大学の教授からは「森見の子」と呼ばれていました。彼女はそのあだ名をたいへん気に入り、

「登美彦氏は学生時代"竹の子"と呼ばれておりまるでおいしい"タケノコ"のようでとても愛らしいのだがこの理論で言えば"森見の子"というのは"モリミノコ"となり毒キノコを想起させるのでこれはいかなるものか」

などと、詭弁とも言いがたい持論を楽しそうに語るのでした。

彼女には、京都のほかにもうひとつ気になることがあるようでした。宮城県には、有楽町の「柚ラーメン」がなかったからです。

彼女は柚ラーメン不足による柚ラーメン発作を発症し、柚ラーメンと過ごした思い出を夜な夜なノートに書き記しては、柚ラーメンに思いを馳せていました。

そんなもの、適当なラーメンにゆずを入れて食べればいいじゃないかと思うのですが、そういうわけにもいかないようなのです。

僕が疑問を投げかけると、モリミノコは静かに語り始め、ここに柚ラーメンの門は開かれたのでした。

第一夜

これは、柚ラーメンという“熱帯”に迷い込んだ私の記録である。

舞台を一人で観劇するのはその日が初めてだった。下から見上げた東京国際フォーラムは、遠くから眺めるよりずっと不思議で、美しく、恐ろしかった。

幕が下りて規制退場のアナウンスをぼんやり聞いていると、無性におなかがすいてきた。シェイクスピアの悲劇は全身のエネルギーを奪っていくので、元からない体力はより一層、おいしいごはんで補う必要がある。そしてここは有楽町であった。

この日の数週間前、『熱帯』という小説の単行本が発売された。これは、誰も結末を知らない不思議な小説、その名も『熱帯』を探し求める人々の冒険を描いた、壮大な物語である。その中でもひときわ目を引くのは、(個人差はあるが、)白石さんが長い行列に並んだという、有楽町の「柚ラーメン」だ。

ゆずが入ったラーメンは意識していれば時々目にするものだが、ラーメン屋に馴染みがない人間からすれば、塩ラーメンに柚子胡椒を入れるのがせいぜいだろう。実際、ゆずが入っていてもいなくても大した変わりがないことが多いので、意識してゆずが入ったラーメンばかり食べようという人はあまり見ない。

それが並んでも食べようというのだから、どんなものなのか一度この舌で味わってみなければと、私は強い使命感に駆られていたのだ。

東京交通会館というのは、どこが何階なのか、自分をも見失うというダンジョンのような建物である。どの階にもステキなアンテナショップがたくさんあり、店内に引き込まれてしまって、ますます訳が分からない。

そうして30分ほどくるくる歩き回っているうちに、長い行列を見つけた。何度も目の前を通り過ぎていたそこが、柚ラーメンの店だった。

食券を購入して最後尾に並び、内と外の区別がほとんどない店内を観察した。一畳半ほどの厨房では、二人の店員が場所を譲り合いながら高速でラーメンを作り、数えるほどの客席では、仲が良さそうなペアルックのカップルが無言でひたすらラーメンをすすっている。

ここはラーメン好きの戦場なのだ、と気がついたとき、舞台観劇用の一張羅を着ている自分が急に恥ずかしくなってきた。

どのくらい待ったか分からなかった。席についてラーメンが出てくるまでの時間すら、途方もない永遠に感じられた。そうしてようやくスープを口に含んだ私は、ただこう思った。

「宇宙で一番うまい」

これが、「柚子柳麺」がうまい店「麺屋ひょっとこ」と私の出会いだった。

第二夜

翌週も、全く同じ演目を見に行った。

舞台は、ミュージカルであってもそうでなくても、声がとても大切な要素になる。私は主演女優のその美声に惚れ込んでいた。

彼女が紡ぐ美しい言葉たちにドキドキしながら、「今日もゆずラーメンを食べに行こう」と思い立った。

この店の柚ラーメンは、魔法のような食べ物である。

このラーメンでは、ゆずは香りづけなどではなく圧倒的な主役なのだ。といっても、主役は一人で輝くことはできない。

なにかしらの和風のだしがよく効いたスープは、ゆずと一体化するために生まれてきたことを感じさせる。これまで犬猿の仲とされてきた、赤ちゃんを抱きしめるような優しさと、大地から湧き上がるような力強さは、おやっさんの手にかかれば仲良く手を取り合えるのだと知った。上品な細麺と相まって、箸が止まらなくなる。

チャーシューがデフォルトでトッピングされているのも魅力のひとつだろう。薄切りのチャーシューは絶妙に柔らかく、このラーメンの上品さを際立たせている。反対にメンマは厚切りになっていて、噛むほどに溢れるうまみがたまらない。煮卵は、きれいな半熟で見た目も美しい。

そのすべてにおいて隙のない完璧な柚ラーメンは、一杯食べるごとに私を沼へと引きずり込んでいった。

私は懲りることなくぴかぴかの一張羅で最後尾につき、白石さんが本を読みながら並んだように、舞台のパンフレットをぱらぱらとめくった。

小さい子供はごっこ遊びが好きなものだが、もれなく私もそうであった。

小説や映画にひとたび触れると現実から逃れるように自分を忘れ、言葉遣いや服装を変えて、自分は本当に現実ではない物語の世界にいるのだと信じていた。役に入り込みすぎると、幻覚が見えることさえあった。

聖地巡礼というのも、ごっこ遊びに近いものだろう。物語の世界に存在する場所が目の前に現れると、本当に登場人物がそこにいたのだと感じられるし、自分がその世界に入ってしまったかのように思われる。

ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』のように、一度読んだ物語をたどっている私もまた、誰かに作られたものなのだろうか。

そんなことを考えながら出来立てのラーメンを一口食べると、たちまち「これは現実である」と確信し、私は何かから逃げるようにラーメンを食べ続けた。

第三夜

その日私は、三省堂書店の前で黒髪の乙女を待っていた。背後から現れた彼女は、私の顔を見るなり「おなかすいた!」と言ったので、柚ラーメンを食べることにした。

私はアイドルが好きだ。2回見た舞台の主演女優も、一時期アイドルをやっていたことがある。特に地下アイドルのライブ会場ではファン同士が仲良くなることが多く、いつかのライブで知り合ったのが、愛らしい黒髪の乙女だった。

彼女は少し迷って、チャーシューがたくさん乗っている柚ラーメンを選んだ。私は、通常の柚ラーメンと、いつも売り切れで中々食べられなかった茶飯を頼むことにした。茶飯は柚ラーメンのスープに引けを取らない優しい味で、和風のだしによく合った。

『熱帯』という小説は、森見登美彦氏の作品では珍しく、東京の地名が多く登場する。氏が一時期住んでいたという文京区も描かれるのだが、物語の中で千夜さんが住んでいる茗荷谷駅というのは、私の大学の最寄り駅でもあった。講義の帰りに播磨坂をてくてく歩き、坂の向こうのおしゃれな店で高級なパスタを食べるなどしたものだ。

森見登美彦という登場人物は、神保町の洋食屋「ランチョン」を訪れるが、ここも実在する。私の恋人は、『熱帯』で文藝春秋の編集者が食べたという「仔牛のカツレツ」に心酔していた。

土曜日だったからか、私と乙女はたまたま隣同士に座ることができた。彼女はまずスープを飲み、麺を少しすすって、確かめるようにもう一口スープを飲んでから、「うん、おいしい」とつぶやいた。

「チャーシューもおいしいね」
「うしろのポスター見て、銀座店もあるんだね」
「このスープ全部飲めちゃうね」

そうやって無邪気に話し続ける彼女自身はまさにアイドルのようで、戦場を生き抜こうと必死なおやっさんやほかの客の心にひとときの平和がもたらされた。彼女は本当にスープを全部飲んで、笑顔で店を後にした。

食べ盛りの私たちはなんだか物足りず、ハンバーガー屋でポテトを食べることにした。潔い塩分過多である。そのとき彼女が言った言葉を、私は忘れないだろう。

「私、ゆず嫌いなんだよね」

その後の噂によると、彼女は半年で3回、あの店の柚ラーメンを食べたのだという。魔法のラーメンは、ゆず嫌いをも虜にしてしまっていた。 

第四夜

私は恋人に、「とにかくおいしいラーメンがあるから行こう」と何度も伝えていた。にもかかわらず、中々タイミングがつかめずにいたのは、あの店が日曜定休だったからである。あまりにも二人で食べに行けない期間が長すぎて、その間に何回一人で食べたか分からなくなっていた。

ようやく彼と予定が合う頃、私は柚ラーメンの新境地を開きたくてうずうずしていた。乙女が見つけた「銀座店」が、ずっと気になっていたのだ。

口コミを見ると、店内は高級レストランのようにおしゃれで、若い女性たちがラーメンを作っているとあった。そんなラーメン屋らしからぬオシャラーメン屋に行くのは、誰でも勇気がいるものだ。

オシャラーメン屋と言ったら、いかにもカップルで行くのにふさわしそうではないか。私は彼を引き連れて、銀座店へ足を運んだ。

私たちは頻繁にラーメン屋に並ぶ。

達磨くんのようにまるっとかわいらしい彼は、私の聖地巡礼〜食べ物編〜によく付き合ってくれていた。

特に気に入っているのは、京都・木屋町にある「みよし」なのだが、私たちの間でこの店は、登美彦氏の大名作『四畳半神話大系』で主人公が訪れていることで有名だった。一般的には、GACKT様のお気に入り、で有名らしい。ここの長浜ラーメンは、おなかがすいていなくてもつい替え玉してしまう。

森見作品でラーメンと言えば、「猫ラーメン」が浮かぶ人が多いだろう。あれは「はらちゃんラーメン」という、河原町にひょっこり現れる屋台がモチーフだと聞いているが、こちらはタイミングがつかめないうちに閉店してしまった。

私は閉店してから数日間悲しみ続け、狂ったように店主のブログを読み漁り、登美彦氏の名前が出てきたときにはいよいよ涙が出るかと思った。

二度と悲しい思いをしないために、私たちはラーメン屋に並び続ける。

銀座店は全く並ばずに入ることができた。モノトーンの店内には、今にもキャビアが出てきそうなオシャカウンターがあり、イマドキのお姉さんたちが優しく迎え入れてくれた。

銀座店には、店舗限定の特別メニューがあった。柚ラーメンのほかにもおいしそうな名前のラーメンがたくさんあったが、そんな中でも、サイドメニューの豚丼が感動的においしかった。彼はラーメンがのびるのも構わず、豚丼だけ先に食べてしまった。

しかし、もうあの豚丼を食べることは叶わない。

銀座店はもう、閉店してしまった。

第五夜

母はアンテナショップが大好きである。アンテナショップとは特定の地域の特産品を扱っている店舗のことで、有楽町や銀座のあたりには、東京交通会館以外にもたくさんのアンテナショップが立ち並んでいる。

有名なお土産はもちろん、地元のスーパーでしか買えないような意外なものが売っていて、気軽に疑似旅行が楽しめるステキな施設だ。

私は母と二人で出かけることは多くなかったが、「アンテナショップ巡りに行こう」と誘った。母はラーメン屋に微塵も興味がないので、どさくさに紛れてゆずラーメンを食べさせようと企んでいたのだった。

母は昔から、私が熱を出すと必ず本を買ってきた。母自身は本を読まないので、動けなくなるとまず、布団から少し顔を出して読みたいタイトルを注文するのである。

星新一のショートショートや、テーマパークのファン雑誌や、星座からひも解くギリシャ神話の考察や、それらの本を布団で読みながらうとうとする時間が好きだった。

ある日『赤毛のアン』をお願いすると、母は何を思ったか『不思議の国のアリス』を買ってきた。その本は母のようにへんてこで、たちまち夢中になって、熱が下がったあとすぐに『鏡の国のアリス』を買いに行った。

これが『夜は短し歩けよ乙女』との出会いにつながっていることを知るのは、数年あとのことである。

私たちは銀座駅で降り、長野県、熊本県、鹿児島県、兵庫県と日本全国を津々浦々したのち、昼過ぎに東京交通会館の地下へたどり着いた。

いつものスープが歩き疲れた身体にしみわたる。少し離れた席に座った母も、心なしか微笑みを浮かべていた。

先に食べ終わって、エレベーターホールで本を読んで待っていると、母が興奮した様子で現れた。

「ラーメンどうだった?」
「…おやっさんにスープこぼされたんだけど」
「うーんと、大丈夫?」
「チャーシューおまけしてくれた!」
「それはよかったね、おいしかった?」

母はもう聞いていなかった。そう簡単にこのラーメンの魅力が分かってたまるか、とムキになって、そのときようやく、千夜さんの言葉の意味が少し分かった気がした。

はてしなく続く夜に

『熱帯』という小説には、彼女が夢中になった柚ラーメンがどれほど魅力的に書かれているのか、とても興味が湧きました。

僕はアマゾンで単行本を注文してから眠り、次に起きたときには郵便受けに『熱帯』の姿がありました。

読み始めてすぐに、「僕はこの主人公を知っているぞ」と思いました。奈良に住んでいて、朝はベーコンエッグを食べ、執筆は午前中に終わらせる。それは、彼女がよく語っていた、森見登美彦の生態でした。

なんとも不思議な気持ちになりながら読み進めていくと、思ったよりも早く、その場面に出くわしました。

それは、白石さんという女性が数年ぶりに読書に熱中する様子が描かれたうちの一部です。

彼女は夢中で『プリズンホテル【1】』を読み終えると、夕闇の迫る有楽町ガード下を駆け抜けて三省堂書店へ向かった。そうして続きの三冊をまとめ買いして、東京交通会館地下の柚ラーメンの行列に並びながら読み、小石川の自宅に帰ってからも読み、さらに翌日も鉄道模型の店で読み、その翌日の夕暮れに文庫本四冊を読み終えた。

森見登美彦『熱帯』

柚ラーメンについて触れられるのは、後にも先にもこの一文だけです。

この小説には、ほかにも魅力的な場所がたくさん出てきました。僕も学生時代に桜を見に行った播磨坂、「学団」の会合が開かれる純喫茶「メリー」、柚ラーメンの上空に浮かぶ銀座スカイラウンジ。

家とバイト先の往復しかしない僕にはどこまでが本物か分かりませんでしたが、彼女はきっと実在する限りすべての場所を訪れたことでしょう。その中でも、このたった一言がどうしても気になったのは、必然だったのでしょうか。

気が付くと、「麺屋ひょっとこ」の券売機の前にいました。柚子柳麺のボタンを押して、出てきた小さな紙を握りしめ、通路まで続く長い行列に混ざりました。

その時、ふいに女性の声が聞こえてきたのです。

「私の『熱帯』だけが本物なの」

これは、柚ラーメンという“熱帯”に迷い込んだ僕の記録です。

麺屋ひょっとこの柚子柳麺

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