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世にも素敵な大失敗をした話〜謙虚さと権威主義のはざまで

取り返しのつかない失敗だった。しかし、心から人に感謝の念を抱いた。
そんな、かけがえのない失敗をする機会を得た。そんなお話。


剥き出しの嫌悪感を患者に投げつけられた


この医者、ケンカ売ってるのかな?と思ったよ。あなたの言葉に、ものすごく嫌な気持ちになった。」

こんな剥き出しの嫌悪感を患者さんからぶつけられたのは、医師になってから全く初めてのことだった。翳りゆく病室。ショックのあまり、自分はしばらく、その場に突っ立ってしまった。

ある重い感染症(コロナではない)のために入院した山田さん(仮)。たらい回し気味に遠方から搬送されてきた。到着時は重症であることも相俟って、少しイライラしているようであった。

無理もない話だろう。そもそも、高熱と激しい頭痛に魘されながら搬送されて「正気でいろ」という方がおかしな話だ。

幸い、山田さんは薬物治療による回復の途上にあった。しかし、血液検査には炎症の爪痕がくっきりと残っており、しばらく入院による経過観察が必要であった。

そこで、深みのない笑顔を顔面に貼り付け、医師としての会話を続けた。

Dr(自分)「体調はどうですか。」

Pt(山田さん)『だいぶ良くなってきたみたい。』

Dr「それはよかったです。幸い、採血検査でも峠は越えたようで、我々としても安心しています。しかし、炎症はまだ消えていないため、もうしばらくお付き合いいただく必要がありそうです。」

Pt『まだ怠いし本調子じゃないから、それがいいと思う。でも、いつ退院できるんだろうね?』

医療者と患者の間には常に、情報格差という永遠に埋まらない溝がある。僕は医師として、山田さんがしばらくの間退院できないことを経験的に知っている。

体調は良くなったみたいだけど、まだまだ危ない状態にあることを、分かりやすく伝えなければ。そう思った。

Dr「そうですね。現在の状態を例えるならば、こうです。寝タバコが原因で家が燃えたとして、寝タバコは回収したものの、家全体はまだ火が消し止められていないようなものです。もう少しで消火作用が終わります。」

Pt『はあ』

Dr「もう少し時間がかかると思いますが、なんとか辛抱ください。明日、また伺います。」

夕日を背に受けた患者さんの顔は、逆光でよく見えなかった。そして患者さんからも、こちらの表情は見えていなかっただろう。

何故このような表現をしてしまったのか、自分でもよくわからない。まだ入院の必要性があることを、自分なりにわかりやすく伝えたかったのだろう。 しかし、これがまずかったことに、この時は気づいていなかった。

Dr「おはようございます。体調の方はいかがでしょうか?」

翌日病室を訪問すると、開口一番こう言われた。

Pt『・・・あなたね、来たのね。あのね』

(山田さんから、悲しみ、怒り、優しさが混ざった視線を投げかけられた)

Pt『あなたにこれだけは言っておきたいんだけど、昨日の寝タバコの例えは、本当によくない』

Dr「・・・」

Pt『あの表現だけは、ないよ。よりによって寝タバコって・・・ハッ・・・あんたさあ。まるで、あなたの不注意で自分が迷惑しているんですと言われているみたいだったよ。』

Dr「・・・あ・・・」

Pt『この医者、喧嘩売ってるのかな?と思ったし、ものすごく嫌な気持ちになった。あなたは、医者になるまでに色々な努力があったんだと思うし、本当に尊敬している。でも、あの表現だけはだめでしょう。』

Dr「・・・」

Pt『お世話になっている立場で、ごめんなさい。でも尊敬するあなただからこそ、伝えたかった。医者になっちゃったら、こうやって直接言ってくれる人も周りにいないでしょう?偉そうな口を聞いてごめんなさい。』

Dr「・・・大変、大変申し訳ありませんでした。あまりに軽率でした。・・・・」

この時自分の過ちをようやく理解した。激しい後悔に全身を支配され、しばらくその場でうわごとを言いながら突っ立ってしまった。

確かに、寝タバコという表現は非常によくない。それに、山田さんは喫煙者である。自分はタバコを吸ったことがないし、タバコを吸う人間の気持ちはわからない。

自分の心の中にある、バイアスの悪魔が顔を出してしまっていたのか。

医師にとって患者は何人もいるが、患者にとって担当医は1人だけである。患者は医師の一挙手一投足、何気ない一言に大いに翻弄され、一喜一憂する。当たり前のことだ。わかっていたはずなのに。 なぜこのようなことになってしまったのか。

医療者と患者との関係については日々考えているつもりではあった。


すべての医師は、その存在自体が傲慢である


医療者はどのようなことに気をつけて患者と対話すべきなのであろうか。喫茶店でぼんやりしながら、何がいけなかったんだろうと改めて考えてみた。

医療者と患者が話をする目的は、大きく2種類あると考えている。

① 合意形成を目的とする対話
医療には「答えのない問」がいくつもある。「患者の退院先を自宅にするか、施設にするか」や、「がんの患者さんに対して、Aという治療を行うか、Bという治療を行うのか、行わずに緩和的な治療に持っていくか」など。

② 合意形成を目的としない対話
日々のたわいもない(と医療者が考えている)ベッドサイドでの会話。患者に体調や、今後の予定をお話する。

実際の会話では、①と②の間にあるような会話も多い。医療者が②だと思っていても、実は患者にとっては①の会話としての意味合いを持つときもある。冒頭の会話はまさにそのパターンだ(医者の口ぶりで、患者は自分がいつ退院なのかを推量する)。

①と②がどのくらいの割合でミックスされるかは、グラデーション的にその都度変わってくる。

ここで重要なのは、医療者の論理展開は、どうしても独断論的な側面を排除しきれないということである。すなわち、誤りが含まれる可能性がある不完全な考え方を、徹底した検討をせず、それが正しいという前提で話を進める必要性がある。

医療者の知識や経験は、少なくとも患者さんひとりひとりに対する個別化医療の観点では「完全」にはなりえない。しかしその一方で、医療に正解はないが、とりあえずの結論を導かないと、医療行為はできない。

ゆえに、医療者は、その存在自体が「傲慢」であるという呪縛から逃れられない。

それに、医者-患者間には「情報格差」という永遠に埋まることのない溝が存在する。医学のプロである医療者と患者では、今相手にしている疾患についての情報量や経験に圧倒的な差がある。仮に患者がたまたま医療者であったとしても、立場が違うため、その格差を是正することは不可能だ。

要するに、医療者の習性は、こうだ。一見対話法を取りながらも、無意識的に(または意識的に)独断論の立場に立ち、そして情報格差を逆手に取り、自らにとって好ましい結論に導こうとしてしまう。

冒頭の寝タバコのたとえ話をしてしまった自分も、同じことが言える。なんとまあ、傲慢な医師であったことだろう。

医療者は、自分自身がこのバイアスから逃げることができないことを、改めて認識すべきなのだ。

権威主義と謙虚さのはざまで


しかし、医療者が権威主義的になることは、うまく使えばプラスにも働く。むしろ、医療現場における患者-医療者間の対話においては、権威主義は必要不可欠なファクターだと日々実感している。
白衣のハロー効果が、自らの権威を強力に後押ししてくれるし、だからこそ医師は患者に尊敬されるという側面は確実に存在する。

患者にとって、医療について熟知し、自らの取るべき道を示してくれるかどうかは、その医療者が信頼に足るかどうかの大きな判断材料である。

1980年まで医学界最高の権威を持つ医学誌、the New England Journal of Medicineの編集長を務めていたDr.Franz J. Ingelfingerの例を思い出す。

彼は晩年に同誌に寄せた記事”Arrogance(「医師の『傲慢さ』について」)”の中で、自身の経験からこう述べている。

「権威主義、パターナリズム、患者の支配。これらは良い医療を実現するために、必要不可欠なエッセンスである」

FJ Ingelfinger Arrogance. NEJM 1980

Dr.Ingelfingerは、奇遇にも自身が専門とする進行食道がんで亡くなるまでの間、何人もの専門家の友人に助けを求めた。しかし、知識がありすぎるが故にどうしたらよいかわからず、思いつめてしまった。

その時、ある友人から「あなたには『医者』が必要だ」というアドバイスをもらったという。すなわち、患者を支配する代わりに、パターナリズムで持って治療の全責任を負ってくれる人間を探し求めるように勧めたのである。

Dr.Ingelfingerは自分の知識を全て捨て、ただの一人の患者として、アドバイスどおりの医師を探した。その結果、そのような主治医に巡り会い、心から救われたと告白している。



自分自身は沖縄で5年間医師をしていたが、権威主義的なアプローチの塩つまみ加減を意識して診療に当たっていた。

要するに、目線を合わせて、相手の話をじっくり傾聴しながらも、

「医学では一般的にこうなので、私はこう治療すべきと思います。それでよいですね?」

というような断定表現を、少々ぼかしつつも確実に自らの言葉に織り交ぜるようにしていた。

そうすることで、患者の信頼を得ることができていたと思う。特に医師信仰が強いような地方では、このような手法も意識して取る必要があると感じている。もちろん、こうした場所では、特に情報格差が大きいため、説明次第で全てが決まってしまうという大きな危険を孕んでいる。

医療者の責任はやはり大きい。


医療者と患者の対話についての私見


色々述べてきたが、結局、医療者はどのようなことに気をつけて患者と対話すべきなのであろうか。冒頭の自分の失敗は、情報格差を逆手に取り、たとえ話までして無意識のうちに権威主義的に振る舞った結果、患者の逆鱗に触れたという、なんとも残念な話である。

その後患者とは完全に和解し、より一層深いラポール形成を行うことができたが、これもひとえに自分の失敗を指摘しつつも、医療者に対するリスペクトを示してくれた山田さんの度量の大きさによるものだ。

こんな胸の奥がジリジリと焼けるような、しかし素敵な失敗をする機会は、そう多くない。

これを踏まえ、今後の対話において気をつけるべきことを考えてみた。


①とことん謙虚になる。

前述のように、医療者は、プロフェッショナルとして「傲慢な」存在であることから逃れられない。その傲慢さをそのままぶつけるのか、「プロフェッショナリズム」「責任感」という言葉に置き換え、効果的に使用できるのかの違いがあるだけだ。

そもそも、どんな医療者でも、患者のことを1%も知ることはできないだろう。医療現場において、「自分らしく振る舞える」患者がどれほどいるだろうか。

それに、患者の生き方、考え方、イデオロギーは日々変わる。全て証明することができないし、また反証することもできない。

医療者は、患者のことを知ろうと努力しながらも、「患者の本質を知ることは不可能である」という、ある種不可知論的な謙虚さを持つ必要がある。

患者の本質に迫るには、対話を通じてそれを推定するか、すでに患者が判断能力を失っている場合、家族の話から類推するしかない。
船の上から釣り糸を垂らしただけでは、深い海底の様子を知ることはできないのである。しかし、そこが岩場なのか砂地なのかを何とか推定して、戦略を立てなければいけないのだ。


②「相手の立場に立って考える」ことを意識的に繰り返す
自分がどういう表情をしているか、どういう姿勢で、目線の高さで相手と接しているか。患者は医療者の一挙手一投足を見ている。「順調です」と言っても医療者の目が笑っていなければ、「実は自分の病状は悪いんじゃないか」と感じるかもしれない。

退院したいと言い出したくても、医療者に余裕がなさそうだったら、言い出せずにふさぎ込んでしまうかもしれない。相手の立場に立って考える。その重要性を理解していない医師はおそらくいないと思うが、なぜかこれを忘れたかのような言動をしてしまうのだ。


③たとえ話は慎重に

当たり前のことだが、医療面接においては相手の本質を類推しながら、言葉を慎重に選んで話さないといけない。

たとえ話は慎重に使用すれば確かに効果的だ。その一方で、冒頭の失敗のように、やり方を間違えると相手の立場や本質を無視し、自分の意見を押し通そうとする傲慢な行為となりうる。
しかも、それに気づかずに終わってしまうことも往々にしてあるだろう。

自分の場合は、はっきり言ってくださる患者さんだったからこそ、遅ればせながら過ちに気づくことができた。その結果、患者さんの目の前で、罪の意識の業火に焼かれたのだが。

今まで、自分は医師として謙虚なほうだと思っていたが、思い込みだったのかもしれない。

今回、自らの失敗を指摘してくれた山田さんの存在は、本当にありがたいものであった。医師の仕事は本当に面白いし、なってよかったと改めて思った。 そして、山田さんに「あなたは、医者になるまでに色々な努力があったんだと思うし、本当に尊敬している。」と言っていただいたのは、身に余る光栄であった。


自分は、周りの理解があってここまで来ている。医師になって本当によかった。

そうだ、親に感謝の気持ちの一つでも、電話で伝えてみよう。

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