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僕らはみんな代替可能品

ありふれた言葉として使われているが
「人材」という語は魔性の言葉である。

会社におけるマネージャーが管理すべき経営資源は「ヒト・モノ・カネ・情報」と言われる。
つまり会社において人は資源として扱われる。

財務的には労働者はコストだ。
コストは削減すべきことが推奨される。

もちろん人はコストなだけではない。
むしろ会社は売上に貢献することを期待して人を雇うのである。人はコストであると同時に売上にも関連する。

みな自分が会社にとって有益な存在であることを証明しようとする。貰っている給与より会社に貢献していることを証明するために、頑張る。

世の中に溢れる自己啓発本もいろいろ書かれているが、その多くの記述されてなくても自明の前提とされている事は「お金を多く稼ぐことが人生で大切なことである」であり、その所得の源となる利益をあげれる人間がこの世にとって価値のある人間なのだ。

この社会で生きる我々にとって、コストにしかなれない人間は不要である。
現代は人権があり、生命は存在するだけで尊いものとされている。なので生活保護や年金など社会保障という考えがあるわけだ。

人間はそれだけで尊いはずなので「人はお金じゃないよ」とか「会社で失敗したからって自殺しちゃダメだよ」など言う。

しかし、実際の現実をみると、仕事ができない人間や、働けない人間がそれらヒューマニズムを語る人々から受ける扱いは、いかにも価値のない人間のように扱われることは多々あるのである。

なので、口先では綺麗なことを言ってても、実際的には社会で生産活動に関われない人間は、不要であり、人生きる価値がないと烙印を押されているのも同然の待遇を受ける。
この社会において働けない人間は実質的に落伍者の烙印を押される。

産業革命で、仕事は分業化された。
分業や機械化で、細切れになった仕事は、職人しか出来なかった作業を誰でも出来るものに変えた。

人々はほぼ全ての人が賃労働者になった。
それによって生産性は上がり、確実に社会は豊かになった。明らかに、物質的には幸福で満たされた世界になったと断言できるだろう。

しかし、一方でわれわれは人間でなく、機能として扱われるようになった。

会社で働くうえで、私が誰であるかどんな人間であるかは関係がない。
そこで意味があるのは、いかに利益に貢献できるか、いかに有益な機能を果たせるかである。
そこで人間は人格を剥奪されて、機能として扱われるようになる。
営業のように人間性を問われるような仕事もあるが、そこでは人格や人間性でさえ機能として扱われる。人格も有益か無益かで、その価値を問われてるのである。

そして会社において、我々は代替可能品である。
分業で細切れになった仕事は、そこに当てはめるパーツのように人間を扱う。

私がいなきゃ現場が回らないみたいなことを言う人もいるが、それは多くの場合は幻想であり、一時的に混乱するかもしれないが、誰が抜けたって大抵の会社は回るものである。

なぜなら欠点も長所もある多数の人間が集まって、その個性を均すことで機能するのが会社だからだ。スティーブ・ジョブズが居なくなったAppleでさえいまだ健在なのだから。

社会は我々1人1人を大切そうに扱い、代替不可能なもののように扱うが、それは外面上だけのことで
本当の部分では代替可能だし、たぶん本当はわれわれ自身も自分が掛け替えのない存在じゃない事を直感で知っている。

日々をやるべき事で埋めていないとそれは虚無感として襲ってくる。

人々を代替可能品にする社会は悪いことだけじゃない。
そんな社会だから、人は煩わしい土地や血縁の束縛から自由になれたのだ。自分の意思で自由に人生を創る権利を得られたのだ。


私生活について
そんな人間の価値を機能で計る社会において、われわれが人間として生きられるのは私生活と家庭だけである。

しかし、見渡せばどうだろう。
われわれはその時間をあまりに軽薄に扱ってはいないだろうか。

私生活で行われる行動は、次の仕事のための回復期間、
もしくは仕事へ捧げるための自己啓発のための時間として扱わられる。

そしてそれ以外の私生活で行われる多くの行為は、「娯楽」と「消費」という言葉で片付けられる。

誰にとっても共通に自明なものとして知らぬ間に与えられた価値観を引き剥がし、もう少し自分の内面に眼を向けるべきではないだろうか。

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