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「BAR HOPE」

⑤マティーニ〜


 ビル・エヴァンスのピアノをかき消すような彼女たちの笑い声が扉の外から聞こえてくる。
 莉子さんと亜美さんは一件目でワインをしこたま飲んだその帰りに、いつだって大笑いしながら二人で店にやって来る。
彼女達におしぼりを渡しながら「今日も楽しそうですね」と声をかけると、二人はまた大笑いしながらそれを受け取り、いつも揃ってマティーニを注文する。

 マティーニは「カクテルの王様」と呼ばれるほど歴史のあるカクテルであり、アメリカのホテルで働いていたマルティーニという名前のバーテンダーが考案したという説や、マルティーニ・エ・ロッシ社のドライベルモットが材料に使われていたからなど、多くの逸話が存在している。
ドライ・ジンとドライ・ベルモットのみで作るいたってシンプルなカクテル故に、バーテンダーの腕が試されるカクテルとも言われている。
ショートカクテルだがシェイクはせず、まずはミキシンググラスに八分目ほど氷を入れてから水を注いでステアをする。ミキシンググラスを冷やし氷の角が取れたところで水を捨て、ジンとドライベルモットを3:1〜4:1の割合で注ぎステアをして、よく冷えたカクテルグラスに移し、オリーブを添えれば完成する。

 マティーニに使われるベルモットは白ワインに香草を配合して作るフレーバーワインであり、ハーブを感じる少し癖のある匂いが特徴になる。そこに辛口のドライ・ジンが加わることで、後味をしつこく残さないキリッとした爽やかな口当たりの中に苦味を感じる、大人な味わいに仕上がっている。

 二人は同い年で正確な年齢は僕も知らない。以前はよく二人でもう三十路だとか茶化しあっていたけれど、ある時からあまり年齢の話をしなくなり、他のお客さんに聞かれても煙に巻いて答えずにいた。とても綺麗で若々しい二人だから、年齢なんて数字はどうでもいいんじゃないのかと僕は思うけれど、彼女達にはそれが自身の価値を測る基準の一つになると考えているのかもしれない。
 二杯目のマティーニに口をつける頃には大抵が最近出会った男の話題になっていて、やれ経営者だの、年収がいくらだの、高スペックなどと、カードゲームでもしているかのように二人で熱心に競い合っている。
そしてマダムはそんな会話が大嫌いで、いつも彼女達に説教を始める。

「またアンタ達はそんなくだらない話をしてんのかい」

「くだらなくないよ、これは重要なことなんだから」

莉子さんがマダムに反論し、亜美さんがそれに大きく頷く。

「私はあんたらの使うスペックとかって言葉が嫌いでね。人は機械や車じゃない、もっと複雑な生き物なんだよ。スペックなんてちんけな台詞で片付けないでおくれ」

「仙人みたいな暮らしのマダムには分からないんだよ!たとえば将来のことを考えたら、お金に困らない人を選んで結婚した方がいいに決まってるでしょ。勢いだけで結婚して、将来お金に困るなんて惨めなことになりたくないの」

「だったらあんたが相手を支えてあげりゃいいじゃないか、うるさく条件を挙げる割にはえらく他力本願で、結局は楽がしたいだけに聞こえるよ」

「現実的な話をしてるだけ、女性がずっと働き続けるには社会的な制度も理解もそれを利用する雰囲気さえも整ってないんだよ。
 それに高スペックな人間は、それだけ他の人よりも努力して真面目に仕事に取り組んできたって証明でもあるんだから」

 マダムはため息をつき、諭すような口調で彼女達に語りかける。

「いつまでそんなでっち上げの固定観念に縛られてるんだい。あんた達が本当にそれを幸せだと思うんなら構わないけど、不幸も幸福もあんた達が思ってるほど単純じゃない。欲が満たされれば人は幸せだと勘違いしちまうだけさ。
 どこかで見たような格好をして、どこかで見たような髪型で、鞄を持って、靴を履いて、今あんた達が飲んでる酒さえも私には自分を着飾る為のアイテムにしか見えないね。
 覚えておきな、人を条件で選ぶ人間は人からも条件で選ばれる覚悟がないといけないよ。完璧に自身を磨き上げておかないと、条件だけを挙げ続けいつかは先細っていく幸せの先で一人ぼっちになるだけさ」

「クソババァっ!!」と莉子さんは悪態をつき、亜美さんはその後ろで大きく頷く振りをして考え込んでいる様子だった。

 店内は少しだけ静かになり、ビル・エヴァンスの繊細なピアノがまた響き始める。マダムは黙って煙草の煙を燻らせ、二人は新しいマティーニを注文した。

 僕はもの凄くお金持ちになった経験もないし、今この瞬間を幸せだ感じることもないから、マダムと彼女達の主張のどちらが正しいのかは分からないけど、ただ僕の作るマティーニが着飾った彼女達の心を軽くしてあげられるものならいいと思った。王様と称されるそのカクテルが彼女達の価値を高める一杯ではなく、彼女達が輝くための一杯になってほしいと。
 マティーニという完成度の高いカクテルにバーテンダーが試行錯誤を繰り返してきた歴史の中で、僕の作るものは余りにも凡庸なものだろう。
 それでも、ただ彼女達の表層を覆うように流れ落ちていくのではなく、いつかはこのビル・エヴァンスのピアノのような、彼女達の心に染み渡る一杯になれるよう丁寧に作り続けていこうと誓った。
 


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