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「変わらぬ日常」


「何よあなた、なんでそっちに座ってるのよ?」

彼女の一言にビクリとしたが、私はそれを悟られぬように平静を装う。

「いやぁ、こっちの方がテレビがよく見えると思ってな。今日は俺の好きな番組がやるんだよ」

「あなたいっつも、食事中にテレビは観るなってうるさいじゃないの」

「俺も、もう歳だからな、頑固じじいにならないように、これからは柔軟性を持ってやっていこうと思ってるのさ」

こんな彼女との偽りの生活を、私はこれからずっと続けていかなければならないのだろうか。

「あとさっきから、『俺』ってなんなのよ。俺や僕なんてのは、いい歳した大人の使う言葉じゃないんでしょ」

やはり駄目だ。これ以上続けても頭がおかしくなったと思われるだけだし、何より立派に子供を育て、その先にこうして訪れた夫婦の穏やかで幸せな生活を壊しかねない。
信じられないかも知れないし、受け入れることが出来ないかもしれない。それでも私と、この人の旦那の心が入れ替わってしまった事実を伝えなければならない。

「おい、みちこ」

「みちよです」

「みちよ、晩ご飯の前に、私から話があるんだ」

旦那の深刻な表情を見て、みちよさんは黙って私の向かいに座った。

「信じられないかもしれませんが、今から私があなたにお伝えすることは、全て真実です。
私はあなたの旦那ではありません。いや、外見はもちろん旦那さんそのものなのですが、その中身が、心が違うのです」

ここまで伝えるとみちよさんは何も言わず、壁にかけた時計にチラリと目をやった。

「私の名前は野口泰彦、旦那さんと同じ58歳の会社員です。私と旦那さんは同じ会社でお互い顔を見知ってはいましたが、部署が違い話したことはありませんでした。
今日も仕事終わりの旦那さんが私の前を歩き、私もその後ろを駅に向かって歩いました。
私がスマートフォンに気を取られていたのが悪かったのです。旦那さんが忘れ物に気づいて立ち止まり、会社に戻ろうと振り返った時には、もうほんの数センチの距離に私が迫っていたのです。旦那さんが『あっ』と声を上げ、私が視線を上げようとした瞬間に二人はぶつかりました。何が起こったか状況を理解出来ず、私は後ろに倒れながら、咄嗟に旦那さんの体を掴んでしまったのです。そのままもつれるようにして私たちは地面に倒れ込み、気づいた時には、二人の心が入れ替わってしまっていたというわけです」

全てを聞いたみちよさんの顔は、みるみるうちに歪んでいき、最後にはテーブルに突っ伏して、そして突然笑い出した。

「はははははははっ!いや、ごめんなさい!そうゆうのって普通ドラマとかでは、爽やかな男の子と、可愛らしい女の子が入れ替わるんじゃありませんでした?なんでおじさんとおじさんが入れ替わっちゃったのかしら」

「みちよさん、こんなの馬鹿馬鹿しくて信じられない気持ちは分かります。でも、これは真実なんです」

「いや、信じてはいるんですよ」

「えっ?」

「だってうちの人は、たとえ冗談でもこんな意味のない嘘をつく人ではありませんから。出会った頃からずっと頑固で、大真面目を貫いて来た人なの。だからあなたの言うことは信じますよ」

「そうですか、良かったです。それではこれからの話を・・・」

「あの、もうお腹が空いたのでご飯にしてよろしいですか」

そう言うと、みちよさんは私の話も聞かずに立ち上がり、テーブルに夕食のおかずを並べ始めた。
特に会話もなく夕食を食べ終わると、みちよさんは一人でテレビを観て、本当に楽しそうにクツクツと笑っていた。

みちよさんは夕食前に風呂は済ませたと言って、私に風呂をすすめた。風呂から出るとリビングの電気は消され、みちよさんはもう寝室のようだった。
私もなるべく静かに二階の寝室に向かい、そっと布団の中に体を忍ばせた。

部屋は暗く、さっき消したばかりの蛍光灯だけが、青白く目の前にぼんやりと浮かんでいる。

静けさの中で、みちよさんの静かな寝息だけが、隣の部屋から洩れていた。



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