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久しぶりにハンナ・アーレント「人間の条件」を読む 2024年2月会

久しぶりに最初から参加できました!
佐藤和夫先生とハンナ・アーレントの「人間の条件」を読む会です。
初回の様子はこちら↓

ここまで書いて気がついたのですが、今回は2周年回だったんですね。
佐藤先生のお話は面白くて、毎回気づきがいっぱい。

佐藤和夫先生

本日は、武蔵小杉の総合自治会館の会議室が会場だったんですが、満員御礼。世話人のきゃさりんが入れなかったくらいです。(ごめんなさい)

先ほど上に貼ったリンクを読んでいただけるとわかるように、この活動自体が「政治」つまり、自分たちの住む場所を素敵なところにしていきたいという願いによって形成されている自主的な集まりですものね。自由闊達な意見交換の場として、この会を愛している人は本当に多いのです。毎回脱線、雑談たっぷりなんですが、この雑談がまた深い。

今日の最初の話題は年賀状のことから。
以前先生のゼミにいたという方が静岡から参加していたのですが、その理由は年賀状で先生が「こんな会をやっている」というのをお知らせしていたから、ということ。

近代化というのは、儀式を不要なものとする仕組みがかなり含まれているんですよ。

という先生の話から「近代」についてひととおり話して、2時間くらいまでを費やしています。まあ、これも想定内。いつものことですが、この雑談が本題にめちゃくちゃ関わってくるのです。しかしそこから書くと本当にまとまらないので、雑談部分は後にまわして、本に入った後半からいきましょう!


自由とは何か

本日は「人間の条件」「第二章 公的領域と私的領域」の9節の途中(P.98の10行目)から。

この観点から見ると、近代が親密さを発見したのは、外部の世界全体から主観的な個人の内部へ逃亡するためだったように見える。この個人の主観は、それ以前には、私的領域によって隠され、保護されていたものである。私的領域が社会的なるものに解体したことは、不動産が動産にだんだんと変わっていった過程に最もよく見られるだろう。(中略)こうして近代の財産は、世界的性格を失い、人間その小野の中に場所を移し、個人がただ死ぬときに失う肉体の中に場所を移した。(中略)私たちはすでに、実際、自分の頼れる唯一の財産が自分の能力となって以来、成長し続け、今では、それを私有制度によって管理することができないほどになっている。まるで、自分の私的利益のために公的領域を利用しようとする人々にたいし、公的領域が復讐しているかのようである。しかしこの場合、最大の教委は富野試遊制度を廃止することにあるのではない。そうではなく、自分自身の触知できる世界の場所としての私有財産を廃止することにある。

第二章 公的領域と私的領域 ⑨社会的なるものと私的なるもの より

ここでアーレントは、普通の哲学史を根底からひっくり返すような議論をしている。
例えばスピノザは「すべてものごとは必然的に定められている」という。そうするとそもそも自由はないのではないか、という理解になる。これに対してエンゲルスは「自由というのは、必然性を認識して、それをコントロールすることができること」という。

アーレントの自由

アーレントの言っている「自由」はこれらとは全然違う。
「ひとりひとりが、他者と一緒に語り合ったり、一緒に活動して、その経験によってこの世界に生きていてよかったね、と記憶に残ること」「お互いが強制も命令もしないけれど、共通して作り上げることができること」が自由なのだと彼女は言う。

アーレントは「人間は必要性、必然性から無縁になってしまうと、ちっとも面白くない」(それどころか、生命維持の危機である)とまで言っている。

必要(必然)と生命とは、極めて親密に関係し、結びついているので、必要(必然)が完全に排除されているところでは、生命そのものが脅威にさらされる

(『人間の条件』P.100 ⑨社会的なるものと私的なるもの より)

マルクスは、将来の理想の社会という議論をやる中で「自由の王国」があると語った。「物事をよく見ていたけれど矛盾に満ちている人」とアーレントは彼を評した。「必然性から支配されない空間を自由と呼ぶけれど、必然性がなければそもそも自由に意味などない。」

ここでアーレントのいう「自由」が内省的なもの(「精神の自由」みたいなもの)とは対極にあることも注目。

民衆による政治システム

すこしここで、本の内容から逸れつつ(しかしここは重要な脱線)、政治システムの話になる。自由とは切っても切り離せない「支配」「統治」の根幹で、前半の雑談「近代」ともかなり繋がっている部分です。

評議会と講(こう)

「浄土真宗が作り上げた政治力はすごかったんですよ。石川、富山は浄土真宗のかなり強力な地盤。150年間、僧侶と地侍と農民で統治してきたエリア。文字通り、下から作ったもの。アーレントがいっている『下から作った政治システムは強い』というのを地で行っている。『公民館』の公というのは実は「講」のこと。」

(でました、この講座でなんどもでてきている「講(こう)」「大山講」「御嶽講」とかの「講」ですが、これこそが下部から作り上げていく政治力である、というのがこの会でよく先生からも語られること。)そして、この「講」を徹底的に叩き潰したのが「織田信長」でした。そこから、日本の政治は「上から」一辺倒になったわけです。


(第7回あたりに遡ると、講の話が出てきます。↓)

アーレントが「革命について」で言っている「評議会」は、この講のようなもの。先生が言っていた「下からの団結は、なんらかの権威(この文脈では浄土真宗)と結びついて、自分たちの共通同意の空間をシンボルとして持つ」ということと、「アーレントは、ジェファーソンに対して、20年に1回憲法を作り直すべき、と言っていた」というところなどは、なるほど、と思いました。

憲法というのは、本来はわたしたちがどうやって生きるかをみんなで同意して決めるもの。いわば活動目標です。形骸化すると、次の世代はちっとも信用しなくなる。「戦争をしない」という目標を、本当にみんなで大切に思うなら、それをやはりちゃんと次の世代も自分たちの目標として樹立しないと。
大前提だから、なんて守りに入っても、実質的な価値をもたなくなってしまうんですね。次の世代に受け継いで欲しいなら、自分たちがまずそういうふうに活動して、そういう教育を丁寧にしないといけない。

人間には闇の世界が必要

私有財産の四つの壁は、共通の公的世界から身を隠すのに頼れる唯一の場所である。(中略)すべて他人のいる公的な場所で送られる生活は、浅薄なものになる。こういう生活は、たしかに、他人から見られ、聞かれるという長所を持っている。しかし、非常に現実的かつ客観的意味で生活の深さを失うまいとすれば、ある暗い場所を隠したままにしておかなければならない。ところが、完全に公的な場所で送られる生活は、このような暗い場所から人目に触れる場所に現れたというふうには見えない。公示の光から隠しておく必要のあるものに暗闇を保証する唯一の効果的方法は、私有財産であり、身を隠すべく私的に所有された場所である。

(『人間の条件』P.101 ⑨社会的なるものと私的なるもの より)

「独裁者は心の中の闇を認めないんです。ドイツ人はあかりが全部ついているのは拷問のように感じる人も多いんですが、ナチスの経験としてそれが出てくるんです。独裁者は心の闇を否定したがる。心の闇をきちんと承認しないと、人間は育たない。人間にはあらゆる要素があるのだから、それを自分なりにソリチュードの中で練り上げないと、自分というものは出来上がってこない。」と、ここまで読んだ部分を総括するように、先生が言いました。

でました、ソリチュード。
これも、この会でほんとうによく扱う概念です。

「Loneliness is not solitude」の回↓

ハレとケにあたるもの

「人間には隠しておきたい領域と、自ら示したい、輝きたいという領域がある。」
その闇を考えるときに、「私的な領域」というところに突き当たる。生業のためのものは私的領域の根本的なもの。ハレの場は公的なもの。

畢竟、アーレントの言う「公」とは?

ペリクレスがアテネ市民の前で、自分たちが成し遂げたことを演説する場面がある。これが「公的」なものである。(『人間の条件』P.329 「活動」の章にも言及あり) つまり、自分たちアテナイ人はこんなことを、皆でやり遂げた、ということを、その結果の成否によらず広く宣言し、伝え残した、ということですね。

ここで、冒頭に引いたこの会の第一回の内容を思い出します。
つまり「歴史」とはこういうことなのだと、最初に私たちは佐藤先生から習っていました。

「伝統という概念は僕が若い頃は右翼しか使わなかった。でも、人間は、そのようなものを必要とする生き物である。どういう形でそういうものを再興することができるか、前にさえ進めばいいという考えを捨てて、古いものをとりいれていけるのか、大きな岐路に立っているのではないか」と先生は言う。

今日の本題はこんなところです。

雑談

日本に多様な国の王族が流れ着いた

中国には、明と元は異民族支配だった、という気持ちがある。
日本にも、3世紀から9世紀には世界中の人が集まっていた。その証拠に、鑑真のお供はイラン人だった。日本書紀にはペルシャ人の名前が多く書かれている。ササン朝ペルシャが滅びたときに、王族がまず、長安へ流れ、そこから日本にもやってくる。くるときには、一番優秀な技術者・芸術家を連れてくる。この人たちは従うのが当たり前、近代以前には、彼らに選択肢はなかった。

近代とはいつからか

近代の始まりは封建国家の終わり。1618年〜1648年(30年戦争)の時代に、キリスト教は最終審判が来なくて堕落していった、暗黒の近代化。
ヨーロッパの国々は、宗教的異端を弾圧した。十字軍は実際は対イスラム教ではなく、異端狩りのために作られた。11世紀の始まりくらいから16世紀くらいまでのカトリックとプロテスタントの戦争は本当に不毛で、激しかった。

そして、宗教は国家の原理にしない、というウエストファリア条約ができたあたりから、近代が始まっている。

TYRRANY

TYRRANY(専制政治=政治をやるのは1人でいい、という考え)が世界を取り込んでいる。
近代は、富と財産の問題が密接に政治に関わってくる。お金で人心を掴むことができる。近代以前は戦争をやって、何年かごとに政治システムを再編成していた。今は、この世界で手に負えないほどの富を持っている人たちがいるという構造を誰も変えられない。

(あ、これは上に「自由とは何か」の項で引いたアーレントの言葉の太字部分「今では、それを私有制度によって管理することができないほどになっている。まるで、自分の私的利益のために公的領域を利用しようとする人々にたいし、公的領域が復讐しているかのようである。」とつながっていたんですね。

トランプ岩盤支持層は、彼が救ってくれることを信じているわけではないが、そこにしか活路がない。

資本主義からグローバリズムの流れ、は西ヨーロッパの土着概念なのに、それに近代以降は染まり切っているのでは? という意見も。

このあたりは、以下のおすすめ図書も併せて読むことで、理解が深まる、と先生が言っていました。

★本日の先生からのおすすめ図書★

いかに、多くの国の権力者たちが、日本に落ち延びてきたか、ということがよくわかる「渡来系移住民」↓

螺鈿紫檀五弦琵琶もササン朝ペルシャが滅びたときに、その権力者たちが長安に来て、そこから日本に入ってきた、ということですね。


かつては重工業がアメリカの豊かさを支えてきたが、今はGAFAに。自分たちの培ってきた技術が使われなくなってしまった中西部や南部の労働者たちがトランプを支持している、という流れ ↑

副読本としては、やっぱり先生の著書が一番わかりやすいです。
まだ持っていない方は是非。

★本日の先生のおすすめ観光地★

「瑠璃光寺五重塔」山口県(このページのトップ画像です)

「大山祇(おおやまずみ)神社」愛媛しまなみ街道・大三島、日本で一番多くの「国宝」が眠っている。

★参加者のFさんイチオシ益田の神楽★
若者が担い手として育っているのがいい!

お疲れ様でした。
次回は3月9日(4月は7日、5月は18日)を予定しています。
参加希望者はカワテツのイベントページに「参加」ボタン押下の上、きゃさりんまでご一報を。

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