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薄暗い下町のゲームセンターで、小学生が2万円を使い果たした話②

正月はいつも、東京の下町にある祖母と祖父の家に行く。母の姉の家族とともに、総勢10人ほどで押し掛けるのだが、祖母と祖父は団地住まいだから、全員揃うと少しばかり窮屈だ。

団地は昭和の雰囲気が残る建物で、私はその水色の重い玄関ドアが好きだった。開くときにギイィと音がするドアの横には、牛乳配達用のポストと、音符のマークがついた壊れたインターホン。中は3DKで、玄関を開けるとすぐにユニットタイプのお風呂とトイレがあって、そこには色あせたリボンシトロンのポスターが貼ってあった。自分の家と比べると狭い、正方形に近い深いお風呂は小さい頃の私には逆に新鮮で、いとこと一緒に入るのが楽しかった。

生活スペースには通年でこたつが置いてあり、そのすぐ前にはテレビがある。祖母専用のくるくる回る籐の椅子に座れば、冷蔵庫、流し、テレビに座ったまま手が届く距離感だ。

団地は、二つの道路に面しており、入り口からそのまま真っ直ぐ反対側の道路に抜ける作りになっている。少し下がった、反対の道路に面した部屋は、生活スペースとは引き戸で隔てることができて、そこではかつて祖母が駄菓子屋をやっていたという。私が生まれた時にはもう廃業していたが、もんじゃ焼きなども出していたと母がよく話していた。

その名残か、たくさんのおもちゃが入れられた段ボール箱がいくつか置いてあって、私達子どもはそれを漁るのが常だった。キン消しをはじめとするオレンジとかピンクとかの色々な形の消しゴムがそこにはあって、だから私は消しゴムには事欠かなかった。

私達は祖母と祖父をばーばとじーじと呼んでいた。じーじはくっきりとした顔立ちで、いつもきれいに坊主頭に刈り揃えた、清潔感のある人だった。しかし入れ歯の調子が悪いのか、いつも何を話しているのか明瞭に聞き取れない。少々コミュニケーションが難しく、だから、なかなか話しかけにくい存在だった。でも、とても優しくて、いつも私たちをにこにこと迎え入れてくれた。

働き者で、いつだったか彼がビルの清掃の仕事をしている時について行った記憶がある。定年後も、アルバイトでたまに働きに行っていたようだった。そうやって稼いだお金を私たちにお小遣いとしてくれていた。

ばーばは少し釣り目で、ふくよかだった。よくしゃべるし、少し気が強く、母に言わせれば、きつい言葉でよく怒る人だったそうだ。でも私たちには甘く、じーじと同じく、いつもお小遣いを渡してくれた。おせっかいで、面倒見が良くて、近所のおばあちゃんがよく家を訪ねて来た。私たちがいない時は、家に上がって一緒にお茶を飲んでいるようだった。パーマを当てていて、外出するときには色付きの眼鏡、たばこをよく吸っていた。たばこにはプラスチックのフィルターを必ず付けていて、大量にあったフィルターをおもちゃだと思って遊んでいたら怒られたのを覚えている。

そんな二人の家に私たちは大勢で押し掛けるけれども、特に長居するわけでもなく、お年玉を一通りもらったら、みんなで早々に出かける。ばーばとじーじは留守番だ。のんびり歩きながら近所の神社にお参りし、ご飯を食べて、もらったお年玉を各々好きなものに費やしてから団地に帰るのが毎年の流れだった。

その年、私は2万円のお年玉をもらった。小学校3~4年生の頃だったから、結構な大金だ。うきうきした気持ちで、初詣に向かう道すがら、このお金をどうしようか、ずっと考えていた。お参りの後、ご飯を食べ終えて、おしゃべりに花を咲かせている大人たちより先に、同い年のいとこと共にそそくさと店を出た。

子どもは、私と、私の兄と、いとこが三人。同い年のいとこ以外は男だったから、私たちはいつも女二人でつるんでいた。くだらないことを言い合って、笑い合っていた。この日もよく分からないけれど、何かがおかしくて、ずっと二人で笑いながら、ゲームセンターへと向かった。私たちには、行きつけのゲームセンターがあった。

そのゲームセンターには、ばーばがよく連れて来てくれた。当時は、小さなお菓子、カラフルなセロファンでくるまれたラムネとか、キャンディとか、そういうものをざっくりとすくうクレーンゲームがあって、私はそれがお気に入りだった。現代の明るいゲームセンターでは、一回のクレーン動作では一個取れるか取れないか(あくまで私のレベルでの話だけれど)。でも、私のお気に入りのクレーンは、ひとすくいでラムネが何個も取れたのだ。しかも一回二十円くらいで。今のように、絶妙なバネの調整とか、そういうものはなかったのかもしれない。ラムネだって、密封されていないし、いつからそこに置いてあるのか分からない。でも、沢山とれるその様子が楽しくて、毎回そこに一番に向かうのだった。

ばーばは私たちを連れてくる時、いつも端っこのベンチで私たちが遊んでいる様子を眺めながら待っていた。お金をすべて使い切ってそこに戻ると、「はいよ」と言いながらまた500円玉を渡してくれた。私たちはそんな調子でたくさんのラムネを獲得し、よく団地に持って帰った。母たちも、それに驚いてくれるから、うれしかった。ラムネはその時に一度に食べるのではなく、帰りの車の中とか、次の日のおやつとか、少しずつ食べる。大人になった今でも、私はラムネが大好きだが、それはきっと、当時の思い出が影響しているのだと思う。

さて、この日はいとこと二人きり。ばーばをはじめとする大人はいない。大金を持っている時のあの開放感が、大人に見られていない、ということでさらに増す。私たちの笑いは止まらない。二人はまず、両替機に向かった。一万円札を入れたら、今まで見たことがないくらいの、たくさんのお札と小銭が出てきた。細かくなったお金を大切に財布にしまい、いつもの調子でお気に入りのクレーンの前に立ち、二人でラムネを順番に取った。たまに他の子どもがきたら順番を譲りながらも、繰り返し、お金を入れて、クレーンを動かした。しばらくしたら、ラムネは肩にかけていた小さなポシェットには入りきらないくらいの量になった。

店でもらったビニール袋にラムネ詰め込んで、いとこと共に、どうしようか、と周りを見回した。もう、ラムネはいらないかも。二人とも同じタイミングでそう思ったのだ。いつも以上に大漁だ。しばらくラムネは買わなくていいくらいの。でもまだお金はある。これで帰るのは、なんだか惜しい。
すると、ふと、ぬいぐるみがたくさん並んだクレーンが目に付いた。ぬいぐるみはいつだって、私たちの心をくすぐる。子どもだったら、なおさらだ。

私たち二人はラムネの入ったビニール袋を握りしめながら、ふらふらと、ゲームセンターの奥の方へと向かった。今思えばそこが、運命の分かれ道だったのかもしれない。

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