映画「アクトオブキリング」感想

映画「アクトオブキリング」を見た。キリンが出てくるわけじゃない。意味はカタカナより英語がわかりやすい。"The Act of Killing"、なかなか物騒な名前だ。実際、殺しの演技がされる。舞台はインドネシア。1965年共産主義者達に行われた大虐殺を、元軍人(民間の軍の人)になるべく忠実に再現してもらうという映画だ。被害者ではなく加害者にこれだけフォーカスした作品は新鮮だ。元軍人たちは当時虐殺をしていたメンバーであり、回想や、殺しへの心情が語られながら再現が行われている。ノンフィクションとフィクション、両方の要素を持ち合わせていると感じた。どこからがどっちに分類されるのか、曖昧なシーンが多い。

虐殺の再現と、軍人など当時を知る人たちの心情や回想で構成されているので、いきなり全く別の内容に移ることがかなりある。最初はびっくりしていたが、台本がないことが明らかで、人々のぶつ切りの記憶をたどって繋げて作り上げた映画だということがひしひしと感じられた。

私は世界史は不勉強なもので、この映画のもととなったらしい9月30日事件のことも全く知らなかった。インドネシアでタブーとなっている事件らしい。これは共産主義と資本主義という対立という名目で起きた事件だという認識で今はいるが(間違ってたら教えてください)、この対立はかなり身近だと感じた。共産主義者への恐怖や中国人への不信感は今でも見受けられるものだし、私も感じることがないとはいえないものだ。相手を信じられないときには暴力を使うしかなくなる、という発想に陥りがちなのはどの時代でも変わらないから戦争とか暴力沙汰は無くならないのだと思う。契約を結んだって、それが守られる保証は実は無いんだろうし。内心どう思っていても、言葉はそれと違うようにコントロールできる。対話が大事だし、それで平和になれるのだと何度言われても紛争の類は消えていないのは、言葉の性質の持つ限界からなのだろう。悲しい。


以下、感想。ネタバレ注意


虐殺を行っていたのは民間のやくざ、通称「プレマン」たちだった。「プレマン」は、free menからこの名になったという。自由な男たち。一見ポジティブで平和そうな名前だ。ポジティブに見えるがそうではない実態のものというと、ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984年」を思い出さずにはいられない。(軍を統括する「平和省」、拷問を行う「愛情省」など、中と外の実態が全く逆の省庁の名が出てくる。)表と裏を表す言葉はそれぞれあって、良いようにも悪いようにも小手先ひとつでできてしまうことを再認識した。

1000人は殺したというアンワルというかつての殺しの実行犯が中心となって映画は進行する。彼は最初、どこでどうやって殺しを行っていたのかを紹介する。嬉しそうではないが、かといって後悔の念や悲しみもなく、まるで日常会話の一コマのように普通に話していた。彼は「殺すしかなかった」と言った。なぜ俺たちばかりを責めるんだ、そもそも人殺しなら、アメリカは先住民を殺したことがあるし他にもいろんな例がある。全部やり直すなら、カインとアベルからだな、と。一つの事例だけにスポットをあてたのがこの映画だが、この例だけを責めるのは違う気がする。ただ、殺しと言っても具体的な状況は様々だろうし、殺しはなんでも〇〇の刑ね、という単純な罰し方もできない。最終的には個別具体的に注目するのが殺された人たちに誠実な形なんだろう。そういう点で、この映画は価値が高いんだと思う。視聴後に調べてわかったことだが、9月30日事件はタブーとされているから、こういったドキュメントはかなり珍しいものらしい。

アンワルは映画撮影のため当時の関係者を訪ねたり、リアルにする方法などを彼らと話し合ったりする。事件に関わっていた人たちは大勢いて、当時インドネシア政府がプロパガンダとして制作した、中国人や共産主義者を悪者に仕立てた映画について思うことも様々だった。アンワルはその映画を見ると不安が消えると言った。自分が殺してきた者たちが悪であると認識するから。それに対して、他の関係者には真逆のことを述べる者もいた。善悪なんてわからない(都合で変わる)し、紛争は自分を正義だと思う人どうしがぶつかっているだけなんだと感じる。いったん混乱が始まると、どちらかの側にはつかないと殺されるのだろう。

アンワルは被害者役として撮影を進めていく。彼が実際にやっていた殺し方のひとつに針金を相手の首に巻きつけて窒息させるというものがあり、撮影で自分の首をそうやって絞められた。えっっっ本当に絞めるの?ってなった。ちゃんと引っ張っていて、苦しくて手をバタバタさせて、けっこう危ない撮影でヒヤヒヤした。彼は「一瞬死んだと思った」と述べた。死はフィクションでは恐ろしい音や禍々しい演出を伴って演じられがちだが、実際の死はかなり静かで、こう言っていいのかわからないが、かなり地味なものなんだということが伝わってきた。その辺のセミなんかが死んでいる時もめっちゃ静かだし、死体は生き物から無機物に近づいていくように私には見える。葬儀で花を棺に入れる時に涙が出てしまうのは、遺体と花があまりにも違わなさすぎる衝撃からなんだと感じる。どちらも物で、私からの呼びかけには何も反応することはない。

アンワルはこのシーンの後、考え方が一変する。殺しをしていた場所にもう一度行くと、彼は吐き気に襲われ実際吐いて、まともに話すのもしんどいような感じになる。殺された人たちの恐怖や苦しみがわかる、と言いこの映画は終わった。

スタッフロールは、anonymous(匿名)の文字が多くを占めていた。タブーである事件を題材にした映画だからこそ、実名では報復が恐ろしいことなどがあるのだろう。

アンワルを反省させる、という流れになっていたが、彼は殺さない道を選ぶことができたのだろうか、とは思う。彼が特殊なのではなく、彼のような人がわんさかいたと関係者は語っていた。集団の力は物凄く強いからこそ、どういう人とどんな関係を築いていくのかは想像以上に重大な問題なんだと感じる。自分の意志で関係を築くつもりが、気づけば逆に集団の力に引っ張られていた、ということは珍しくないだろう。

暴力が駄目だとか戦争は良くないとかは、言葉では伝わらないんだと思った。自分で自分の首を絞めてみて、首を絞めればこう苦しいんだと体感するほうが効果的だと思った。この映画みたいに他人にしてもらうのは危なすぎると思うし。感覚はどうしても言葉では伝えきれないし、感覚は実際に味わってこそだと思う。

断片的にしか思い出せないしここにも書けていないが、視聴中には本当にいろんな考えや感情が押し寄せてくる映画だった。一度見ただけなのでこのあたりで筆を置くが、2回目に見ることがあればまた感想を書こうと思う。


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