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想像と諸行無常

 死について考えることは私の癖になっているかもしれない。死ぬこと、死ぬ瞬間、死後をよくイメージすることがある。道を渡っている時に横から車が突っ込んで来る、足を滑らせて頭を強打、足を踏み外し転落、薬物の過剰摂取、自死、など様々な死に方を想像する。
 だが、死にたいと思うことは無い。辛いことや苦しいこと、罪悪感に覆われた時に死にたいと思う。と思っていたが、死にたいというより生きたくない、逃げたいという気持ちが強いことに気付いた。逃げたい、または人間以外の生き物になりたいと考える。その辺で寝ている猫、ゴミを食い漁るカラス、そういう生き物を見ていると良いなぁと感じるしそういう風に生きたいと思う。
動物じゃなくとも別の国での生活スタイルを羨ましく思う事もある。日本に生まれ育ち、丁寧なものに見慣れていて、これが普通だと感じていることに気付くまでには時間が掛かるだろう、気付かずに終わる事もあるだろう。箸を使わずに手で食事をする、大雑把に見える料理、誰かには不衛生だと思われるかもしれないがそういう物がすごく美味しそうに見える。汚れた服を着て裸足で外を歩き回る、そういう生活スタイルも良いなと思う。
こんなことを想像していると死にたいという意識は遠ざかっていく。



 最悪、身辺整理は自分以外の誰かに任せることができる(そういう仕事もあるはず)だが、自身の体験や記憶を整理できるのは自分しかいない。記憶の身辺整理をすることに価値はあると思う。生きた証を残せるのは自分しかいない、自分の真実など他の誰かには分からないことだ。
今、部屋に大切に飾ってある物、今この目で見ている物たちは今どんなに大切にしていても天国に持っていくことはできないだろう。今自分が考えている事や今までの記憶でさえ消えてしまうのかもしれない、誰のものでもなく、自分でさえも掴むことができず、どこか見えないところへぼんやりと消えていくのかもしれない。
物は残り、違う場所または違う形に変わり新たに別の誰かの生活に触れているかもしれない。
このように残した言葉の記憶は、デジタルの世界を彷徨い続けるのかもしれない。
誰が残した記憶なのか、誰がぼんやりと文字として眺めているのか。

これは全く暗い話ではなく意外と普通の出来事を私が想像しているのだ。"諸行無常"に対する私なりの解釈だ。生き続けるうちに解釈も変化していくかもしれない。

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