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空間のスケール性と身体性について

武家の建築において、建築の諸要素からその威厳と格式を表現する。

例えば二条城にある将軍に謁見するための大広間では、将軍が座る一の間と大名が座る二の間では床面の高さが変わり、その高低で地位の違いを明確化する。

また、天井が高いほどその空間の重要性が増し、同じく将軍が座る一の間では二重折上げ格子天井となり、その格式を強調している。

同じ二条城の中でも老中の間は板張りの天井で簡素な作りで、長押(襖の上にある柱をつなぐ横木)の上は装飾がない。
また、それぞれの部屋の襖絵の表現などを見ても用途や重要性が推測できる。

このような視覚的表現はガイドブックにも建築史の教科書にも書かれているのであるが、二条城では視覚表現以外の工夫も施されている。

その中でも特に大きなものが、空間のスケール性である。

二条城自体が非常に大きく、外から眺めても大きな建築であるが、入口と言える車寄から大広間にかけては特に通路幅と天井高が大きく、通常の日本建築の1.5倍から2倍程度のスケールになっており、日本建築に慣れ親しんだ身にとっては異質な空間となっている。

それぞれの部屋の間取りももちろん大きく、将軍の背後に見えるであろう床の間も通常の2倍程度となっており、接見する側の人間はその権力に圧倒されたに違いない。

空間のスケールで人々を圧倒する手法は西洋の建築でよく見られ、ゴシック建築は神にできるだけ近づこうと空高く塔が聳えるし、権力の象徴という点ではナチス建築も異様なほど大きなスケールでその権力を誇示し、人々を圧倒した。

今日改めて二条城に入った時、そんな西洋建築に入ったような不思議な感覚に陥った。

この空間のスケール性というものは身体性と密接に結びついており、現実空間に身をおくことではじめて感じることのできる感覚である。

このスケール性に対し、日本人は非常に繊細な感覚を持っているようで、畳という統一された規格を古くから活用したり、千利休に至っては待庵というわずか2畳の茶室を作ることで理想の小宇宙を実現した。

このあたりは近代の建築でも継承されており、槇文彦のヒルサイドテラスなどは天井高を意図的に低くすることで、我々を包み込むような親密な空間が実現されている。

このスケール性の問題は特に建築に馴染み深いものであるが、肌触りや質量など、身体性と関わる問題は現実空間には無数に存在する。

これらの問題はデジタル空間に落とし込むことが難しく、それ故デジタル空間は表現の自由度を落とした、いわばランク落ちさせ次元を落とした空間であるといっても間違いではないだろう。

しかし、デジタル空間にしか実現できない表現や微妙なニュアンスなども存在し、時空間の制約は皆無に等しいと言うことができる。

現実空間とデジタル空間の利点、それぞれをうまく組み合わせることで、これまでになかった新たな驚きや体験を生み出すことが可能になるはずである。

そんなことを考えてはいるものの、その答えを見つけるのはなかなか難しい。

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