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好きな行を発表し合うとか

田島将吾くんと安達祐人さん。ふたりで遊んだ時に同じ詩の本を買って、好きな行があったら発表し合う会をしたと言う。
これを聞いた瞬間に心が踊り、衝動的とも言えるくらい、この本が欲しくて欲しくてたまらなくなった。同じ本で私もそれをやりたかった。同じ気持ちを味わいたかった。


最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』




本が届くまでの間、最果タヒについて調べていたらリトグリの『夏になって歌え』の作詞家であることを知った。
この曲に出会った当初、歌詞に衝撃を受けて思わず作詞家を調べた記憶がかすかにある。Xでマイベストソング2023をしたときには「兎にも角にも歌詞が好き」と紹介した。知らずとも既に、私は最果タヒの虜だったらしい。

この曲を聴いた感想と歌詞の解釈がnoteの下書きに眠っていることを思い出し、余談にはなるがここで少しその話をしたい。


ベッドの横に置いてあるぬいぐるみたちに話しかけたことがある。
「私って結局どうしたいんだと思う?」
何をするにも無気力で、生きる意味を考え始めたことに嫌になっていたこの頃。ただひたすら天井を眺め、ぼーっとし、ただ、イヤホンを耳に指してデカい音で音楽を聞くことだけが"生"を感じる瞬間だった。
そんな時に出会ったのがこの曲。

夏になって歌え。
史上最高気温、この今を灼き尽くして、喉の奥。
横断歩道でひかれた陽炎。
恋も夢もすべては余談なの。

ベッドから動けずにいた私に新しい視点を与えてくれた。この曲が光だった。

過去でも未来でもなく、今を生きることを肯定してくれたようだった。そして、今しかないことを教えてくれた。
だから悔しかった。過去に呪われ、未来に囚われている人間であることをこのとき初めて実感し、それが悔しかった。そんなことで、いや、そんなこととは思っていないけど、あえて『そんなこと』と表現すると。そんなことで、寝食を犠牲にしていたのかと思うとなんだか涙が出た。
今を生きるために美味しいご飯を食べて、見上げれば雲の流れに喜び、下には花が咲いていて、それだけで良いのだと思う。夜は少し眠れるだけでいい。はじめはそれでいい。
私は今日を生きなければならなかった。


いくらでも、明日が来る気がした。
そのときだけ、地平線に永遠が見えるの。

地平線は一枚絵みたいなもので、そこに終わりが見えるから地平線であって、永遠を見出すことが不思議だと思ったけど、少しだけわかる。
今日を生き抜いたその先に明日が、未来があるように、地平線にもその先があるのだと思う。
そう感じさせられた。




本題に戻る。




本を受け取りに書店へ向かうとき、唐突な初夏の気温に圧倒され、日陰を選んで歩いたのが楽しかった。じんわりと汗をかきながら早足で帰る。今日はそういう日。


詩集というものを初めて買った。読みやすいものかと思っていたけど、正直私にはわからないことが多かった。前までの自分ならきっと、わからないことに対する劣等感や焦燥感があっただろう。私の知識のなさと経験不足からわからないんだと、そう思っていた。
ただ、今はもうわからないこともいつかまた本を開いたときにわかればいいかなと思う。




知らない人、きみが作るものより、きみがそこにいることを、好きになりたい、そうして勝手に幻滅をしたり、それすら心地よくなりたい。
それを許してくれるひとがいるなら、それだけでもう、ぼくは安心して生きて、死んでいける。

水野しずの詩

池﨑理人くんのことだと思った。
なんでもかんでも理人に連想して読み聴きしてしまうところがあるのだけれど、彼について想像を膨らませるのが最近の楽しみなので、どうか優しく見守ってほしい。

私は理人のことを知っているけど理人は私のことなんて知りもしないし、存在すらも知らないことだろう。理人にとって私は何でもないなんてそんなの当たり前で、それで良くて、ただ、私にとってあなたは特別な存在であることを知っていてほしいと願っている。そこにいるだけで私は笑顔になれるし、そこにいるだけで救われることが沢山ある。
私が勝手にあなたに期待しているのであって、もしかしたら幻滅してしまうこともあるのかな、なんて考えたりするけど(そんなことあるのかなぁ)、それはそれで良いと思う。あなたの人生まで私のものではないから、好きに生きてほしいと思っている。思ってはいるけど、やっぱりどこか期待してるというか、君もそうであってほしいと願っている部分があるから(君も同じ気持ちであってほしい)。その時は勝手ながらに幻滅してしまうかも。
こんなこと背負わせてしまうのどうかと思うけど、おそらくこのnoteも見ていないだろうし、本人に届きさえしなければ、私の中で芽生えた小さな想いとしてここに残しておくことをどうか許してほしい。


きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、
きみがどこかにいる、
心臓をならしている、
それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。
お元気ですか、生きていますか。
きみの孤独を、かたどるやさしさ。

彫刻刀の詩

ずっと心の奥底にあったモヤが言語化された感覚があった。
学校に行けなくなったとき、担任からいくつも手紙が届いた。それが優しさだということも、仕事だということもわかっているけど、わかっているからこそ、それがあまりにも苦しかった。
「お元気ですか」いいえ。
「体調は良くなりましたか」いいえ。
「次回は〜をやるので来てください」無理です。
そう思った。別に端から諦めてるんじゃなくて、全部無理だから。ほんとうにそれだけで、理由なんてなかった。
友だちから来る心配のLINEも全部プレッシャーにしかなり得なくて、ごめんね。と思いながら今でも通知が溜まっている。その赤い丸を見るたびに身体がずっしり重くなる。誰も私のことをわからないし、わかられたくもない。そう思うたびに、私は孤独であった。当時はそれでよかったと思っていたけど、そういう訳にはいかないことくらいわかっている。私に余裕がなくてごめんね。そんなことしか言えなくて。


私、ちゃんと募金しました。
私、ちゃんと席譲りました。
私、ちゃんといただきますって言います。
私、ちゃんと愛で幸せになれるって思ってます。信じてます。

24時間

優しさなのか偽善なのか、もう何もわからない。「ちゃんと」って思うのは偽善なのか。そもそも偽善とは何なのか。でもそれだって世間から"良いこと"として崇められているじゃないか。と思う。それを偽善とするのって意味がわからない。たとえそれが偽善であろうと、見返りを求めた先の優しさであろうと、良いことは良いこととしてあるべきだと思う。
ただ、信じてる。優しさも偽善も何でもいい。それが全部あなたに返ってきますように。私に返ってきますようにって、そう信じてる。そうじゃないとおかしいから。与えるばかりでは擦り減ってしまうし、バランスが取れないじゃないか。なんだか話がズレているように感じるけど、もう何でもいい。だからみんなで幸せになろうね。


音楽の主役は自分じゃないってことが、ステージを見ると一目瞭然。
それでまたさみしいって、言えばすこしかわいくもろくガラスみたいなそぶりができるただの粘土の女の子。(きみが、私を好きって言えば世界は今より薄っぺらく、簡単になるだろうから、期待してるよ。)

とあるCUTE

直感ですきだと思った詩。
自分の中に実例がないから想像の話をすると、例えば、好きとはそれくらい全てをどうでもよくさせてくれるということだろうか。私がか弱さを演じることもなくなって、ただまっすぐに好きだけがあるようになれば、もっと単純で簡単で、だから早く私を好きになってね。ってことかなぁと想像してみたり。なんだかそれって愛らしい。
期待してるよ、と言えるくらい強気な子がガラスみたいなそぶりをみせるほど惚れ込んでいる相手がいるのだと思うとなんだかくすぐったいけど、思わず笑顔が溢れる。私もそんな気持ちになってみたいと思わせてくれた。






私の詩を少しでも好きだと思ってもらえたなら、それは決して私の言葉の力ではなくて、最初からあなたの中にあった何かの力。

あとがきを読んでようやく全部が完成したような気分になった。彼女の作品と私の経験が重なる瞬間だったと気づいて、私が私であることの意味を知る。
とは言え、それを引き出してくれた彼女の言葉が好きだし、言語化できる能力は時に誰かを救うことになると思っているから。自分を卑下しているとかではなく本当に、私には陳腐な言葉を並べることしかできないから、悔しいほどに尊敬の念を抱く。




好きな行を発表し合うとか。


田島くんや安達さんはどの詩に心を惹かれ、何を思い、誰を思い出したのかとか。ほんとは全部気になるけど、そうやって想像を膨らませているうちが一番楽しかったりするよね。


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