ありがとう さようなら
アギャーという声で世界にこんにちは。
幼い私は、この世の光の中ですべてのものに「こんにちは」を言って回ったのです。小さな指でゆびさして「あ、あ、あ」と言って回ったのです。
おかあさん、おとうさん、おにいちゃん。隣の犬、庭の雀。近所のおばちゃん、幼稚園の先生、たくさんのお友だち。
線路を走りぬける電車。見上げるようなビルディング。その遙か向こうを流れる雲。
まぶしい太陽。さえわたる月と星々。
少し大きくなって、一人旅するようになってからは、世界中の人々に「こんにちは」を言ってまわったのです。
本や音楽や芸術を通じて、見知らぬ人々の心にも触れたのです。
そうやって私の中にこの世というものの地図ができあがっていったのです。
それから一人の女を愛し、おまえたちが生まれた。
おまえたちもまたよちよちと歩きはじめ、つぶらな瞳を見開いて、世界に「こんにちは」を言い始めた。
私はそれをまぶしい気持ちで見つめていたのです。
けれども、断りもなく、突然父の死んだとき、ふいに私ははっきりと気づいたのです。私もずっとここにいられるわけではないということに。
いつかはすべてのものに「さようなら」を言わなければならないことに。
ぼんやりしてはいられません。うかうかすると、さようならを言うチャンスを得られないまま、尻切れトンボに永遠の別れが来るのです。
この人とも。あの人とも。
それから私は毎日、すべてのものに「さようなら」を言い始めたのです。
やさしかったおばあちゃん、おかあさん、いとしい女、子どもたち。
ものかげから私の顔をのぞいている猫。空を舞う鳥。刻々と形を変える雲。
この世の光の中で息づいているすべての命。
路傍の石にさえも。
無限のなつかしさをこめて、毎瞬毎瞬、言うのです。
この星で出会ったあなたにありがとう。ざようなら。
ありがとう。さようなら。ありがとう。さようなら。
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