筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」ほか


【どうでもいい話】

「作品を出すだけで嬉しい」とは、作家にとってある意味で辛い言葉ではなかろうか。
もちろん褒め言葉としても取れるが、自作の作品としての良し悪しを度外視されるのは優しい戦力外通告のようにも聞こえる。

それでも、筆者には二人「作品を出すだけで嬉しい」作家がいる。一人は筒井康隆、一人は萩尾望都だ。
もう筒井康隆は「ダンシング・ヴァニティ」も「聖痕」も「モナドの領域」も読んでいない。萩尾望都も新作のポーの一族は「春の夢」で止まっている、「王妃マルゴ」は今後もおそらく読まない。

だがそれはそれ、「カーテンコール」が新聞広告に載っていたり、「青のパンドラ」を本屋で見つけたりすると、やはり嬉しい。


そんな筒井康隆の「ビアンカ・オーバースタディ」を読もうと思ったのは、
フィリップ・ロスの架空歴史もの(「ヒトラーの友人であり反ユダヤ人主義のリンドバーグがローズヴェルトを破ってアメリカ大統領に当選した」世界を書いた)「プロット・アゲンスト・アメリカ」と、
ジョン・アーヴィングの家族小説「ホテル・ニューハンプシャー」、
そしてハードボイルド小説の評判をチャンドラーと二分する、ダシール・ハメットの「マルタの鷹」
を、現在なぜか同時に手元に抱えており(全て1ページも読んでいない)、この際できるだけバカバカしい小説で頭をリセット(現実逃避)したかったのである。

【ビアンカ・オーバースタディ】

※一応性的な内容が含まれる。古き良きコントの感じで、そこまで攻撃的な内容はないが気をつけてほしい。

ビアンカ・オーバースタディ―overstudyは内容を鑑みるに「過度な研究」と訳すのが正しいか。

本作のコンセプトは「筒井康隆流ライトノベルのパロディ」である。
ただ、どちらかと言うと文体は古き良き「ジュブナイルノベル」、何なら「時をかける少女」に近い。

目次は順に「哀しみのスペルマ」「喜びのスペルマ」「怒りのスペルマ」「愉しきスペルマ」「戦闘のスペルマ」の計五章。

あらすじ:バフンウニの生殖を見るのが大好きな超絶美少女のビアンカ北町は、三流詩人の同級生、塩崎に精子の提供を持ちかけ手で射精を促す。
その後、未来人のノブから未来の世界が巨大カマキリに滅ぼされかけている事実を聞かされたビアンカは、未来を救うため人面ガエルの陣頭指揮に当たる……

これだけ聞くと悪ふざけの産物と思えるかもしれないが、実はかなり上手くまとまっている。
ドタバタ喜劇5割、ライトSF2割、美少女ものジュブナイルノベル1割、通俗官能小説1割、哲学及び社会批判及びライトノベル批評1割と、五分野が200ページも行かないうちに幕の内弁当のように詰め込まれており、かなり面白い。
そしておそらくいとうのいぢ氏(「灼眼のシャナ」や「涼宮ハルヒ」シリーズの表紙を担当されたイラストレーター)に人面ガエルを描かせた例は本作が最初で最後になるだろう。

【なぜラノベの文体にならないのか】

二人は窓と反対側の壁のドアから階下へと降りていき、タケは残ってわたしたちにコントロール・パネルのこまかい操作を教えはじめた。わたしたちは自分たちの時代で高度なゲームなどやっているから、のみ込みは早い。

p144

これは本作の(おそらく)クライマックス、未来の存亡を賭けた人面ガエルと巨大カマキリの戦闘開始直前の一文。

仮にライトノベル風に書くと

コリキと統治は窓から離れる。二人の足取りは、素早い。あっという間に姿が見えなくなる。
「カエルを見てくる!」反響する声だけ、余韻となって残っている。
「なら細かいことはぼくが教えよう」
タケが電源をつけたコントロール・パネルがピカピカ光る。
「コンピューターゲームみたいね」
「扱えそうか?」
「もちろん」わたしはピースサインを作る。直感的に、(できる)―そう思ったのだ。

筆者もライトノベルに詳しくはないから見当違いをしているかもしれないが、まだこちらの方が文体としては近いのではないか。

ライトノベルの文体の特徴は、語りのもたらす「遅れ」の排除にあると個人的に思っている。
もう少し説明すると、

二人は窓と反対側の壁のドアから階下へと降りていき、タケは残ってわたしたちにコントロール・パネルのこまかい操作を教えはじめた。わたしたちは自分たちの時代で高度なゲームなどやっているから、のみ込みは早い。

たとえば筒井氏の文だと、この「二人」が「未来人のコリキと統治」であることは前文でわかっているので省略され、「わたしたちは〜やっているから」の下りはこれ以前のビアンカの状態を説明する時制の遅れを有している。
こうした「省略」や「時制の遅れ」の結果、筒井氏の文章(ジュブナイルノベル風文章)は前掲の筆者の文章(ライトノベル風文章)よりはるかに読みづらい。

では筒井氏の文章が駄目で筆者の文章が素晴らしいのか。それは違う。ここにあるのは、「語り」に対する意識の差でしかない。
(試しに両方の文章を音読するなら、むしろ読みやすいのは筒井氏の文章のはずだ。私の文章は実際声に出すと息継ぎが難しい)

そして「語り」に対する意識の差は、読者に対する意識の差でもある。筒井氏は本作で不謹慎なエログロを目一杯やったつもりだと思うが、面白いことに読者の方に顔を向けているのはむしろ、筒井氏の文章だ。

「語り」は、常に第三者―読者に向け開かれている。
だから省略(読者がすでに確保している情報の省略)が起こるし、遅れ(読者が知っていたほうが良い情報の提示)が行われる。

これに対しライトノベルの文章は、究極的な意味で読者を必要としない。そこにあるのはせいぜい「語り」が持つ弱さ(≒読者への目配せ)の排除であり、単一の主観的な時間の流れに過ぎない。

話が飛ぶが、寝物語に「桃太郎」を話す母親はおそらくいるだろう。だが「源氏物語」の「若菜」を話す母親は多分いないし、「罪と罰」を話す母親は絶対にいない(いたら会ってみたい)。
これは河合隼雄氏の受け売りなのだが、
まず始めに「説話」―「古事記」や「日本霊異記」のような―があり、それが「物語」―「うつほ物語」「竹取物語」を経て、「源氏物語」に代表される一連の物語群に発展し、その後、「小説」が誕生した―とする説がある。

河合隼雄氏の説はいつも発想はいいが発想しかないことが珍しくないのであまり真に受けないでほしいが、どうだろう、なかなか説得力がある話ではないか?

つまり、「語り」そのものである「説話」から「物語」→「小説」と移行するにつれて、少しずつ「話しことば」と「書きことば」は肉離れを起こしていった(母親の口に上らなくなった)のである。
とはいえ、物語も小説もその根には説話を抱えている。つまり、「誰かに話して説明する」構図を栄養源にその枝葉を伸ばしていった。

また話は飛ぶが、「義経記」と折口信夫の「幼神」を結びつけた何かの本を読んだときに、武蔵坊弁慶の臨終の場面が出てきた。
弁慶は首を掻っ切られて死ぬ。義経は弁慶の口に最後の甘露を、と酒を含ませるが、酒は弁慶の開いた喉からなすすべなく零れていく……

この話はどう考えても嘘である。真っ赤な、と形容詞をつけてもいい。にも関わらず奇妙な説得力があるのはなぜか?
「語り」とは「読者に話して説明する」構図だが、裏を返せば「読者に説明できれば何をやっても許される」領域なのだ。

だから例えば大江健三郎の「同時代ゲーム」は単行本で493ページを数える大長編だが、なんと全編が「兄が妹に生まれ育った村の神話を語る手紙」で構成されている。
493ページの手紙である。漱石の「こころ」など話にもならない、どう考えたところで嘘、デタラメである。だが成立する。それは本作が「語り」のルールを守っているからである。
(※確か大江さんの「同時代ゲーム」創作ノートにも「語りの力だけで世界観を読者に納得させる」と書かれていたはず)

この「語り」のめちゃくちゃさをライトノベルは排除した。ある意味で彼らは説話→物語→小説という進化の系統樹をたたっ切ったのだ。
ここから新しい種を産むことはできるのだろうか。

(余談)きっと村上春樹が文壇に登場したときも、当時の作家たちは現在のライトノベルと同じ感覚を覚えたに違いない。
ただ、その後氏は自ら過去の歴史を抱え込むと同時に、ジョン・アーヴィングやティム・オブライエンといった「語り」を武器にした作家たちに影響を受け、「ねじまき鳥クロニクル」という傑作を残すことになる。

(余談)説話→物語→小説という進化の系統樹において、当然カモノハシ的存在がいる。
たとえば「竹取物語」はすでにあった求婚譚や富士の命名譚といった「説話」をつなぎ生み出されているし、ユゴーの「レ・ミゼラブル」の物語的な「読者への語りかけ」という要素を伊坂幸太郎氏の「ホワイトラビット」は見事に使いこなしている。

(追記)この説、よく考えたら源氏物語と「浮雲」の間はどうなるんだ。隠者文学や江戸文芸はどこに行った?
申し訳ない。筆者の確認不足だが、責の三割ほどは河合隼雄にある。
今、暫定的な答えを言えば、それは各時代時代の「物語」であって、例えば隠者文学や「平家物語」、「太平記」なら武士の台頭に伴う戦乱の世を扱った結果の無常観、江戸文芸は泰平の世の気楽な―さながらバブル期の日本のように―現世的な、それぞれの物語があったということで良いのではないか。

(再追記)また、日本以外の国家の物語/小説発生原理がこれで説明できるのか。
日本でも古くは中国の影響下から「和漢朗詠集」、近世では「雨月物語」まで生まれている。
また夏目漱石は西洋からの輸入品の「自我」を一つの主題として小説を書き続けた。
国家間の物語/小説の相互に与える影響を説明できていないのはこの説の明白な弱点だ。

学者として河合隼雄の褒められる点は人間性しかない。時事批評は九割九分外れているし肝心のユング心理学も今では時代遅れとみなされつつあるし……それでも、ある大柄な魂を持った人だったのは事実ではないかと思っている。



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