「憂国」の不思議

「憂国」。三島由紀夫の短編の代表作として、人気の高い作品だ。
昭和36年、三島由紀夫36歳。 

[カバー後ろのあらすじ]
「二・二六事件で逆賊と断じられた親友を討たねばならぬ懊悩に、武山中尉は自刃を決意する。夫の覚悟に添う夫人との濃厚極まる情交と壮絶な最後を描く、エロスと死の真骨頂「憂国」。」

さて。当記事では「憂国」のあらすじは扱わない。よくも悪くも上の通りの作品だし、探せば、沢山の感想も出てくるだろう。
扱うのは、以下の文章。
「妻の美しい目に自分の死の刻々を看取られるのは、香りの高い微風に吹かれながら死に就くようなものである。そこでは何かが宥(ゆる)されている。」
この後本編では「何かわからないが、余人の知らぬ境地で、ほかの誰にも許されない境地がゆるされている。」と続く。

これはどうやら武山中尉には「(略)皇室や国家や軍旗や、それらすべての花やいだ幻」につながるものらしいのだが、そこに筆者の興味はない(右翼の三島由紀夫、愛国主義者三島由紀夫に、私は全く関心を持てない)。

大切なのは、かつて森鴎外に学び簡潔な文章を称えた三島由紀夫がここで「そこでは何かが宥されている。」などいう、曖昧な言葉を使ったことだ。
もちろん、三島はその曖昧な柔らかい表現を、たちどころに追記し、埋めてしまうが、しかし「香りの高い微風に吹かれながら死に就く」とは、あまりに甘い表現ではないか。
この文章は、しかし、それゆえに記憶に残る―この後の、これみよがしな愛国心とエロスの混在の記述を遥かに超えて。

ここでは、何が許されたのだろうか。美に「看取られる」死。それはなんだろうか?

この問題には、筆者はいまだ答えを出せないでいる。

読者のみなさんもぜひ読んで、この、三島由紀夫の「曖昧さ」の持つ「美しさ」を見てほしい、彼が自ら憎んだ、その柔らかさの美しさを。
そこには解答が存在しないゆえ、文章は多面性を持ち、読者の想像力を許してくれる。

(蛇足)いつか、私もこんな一文を書けたら素敵だろうと思う。それこそ自殺するときにでも、その前にこんな言葉が書けたなら、きっと、悔やむことはないような気がする。大げさだろうか?

(追記)ただし現実の二・二六事件が日本が軍事国家に成り果てていく端緒となったのも事実。筆者のようにロマン的に消費するだけではいけないはずだ。
それでも「憂国」は時代から離れて美しい小説だとも思う。どちらも本心である。

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