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夏目漱石「趣味の遺伝」

そんな作品は聞いたことがないぞ、という人もいると思う。デレク・ハートフィールド方式の、人を食った解説と疑われては困る。ちゃんと青空文庫にある。

しかしまあ、知名度のない短編と思う。なぜないか。世間が愚かなゆえか。
違う。世間には必ず理由があるものだ。

……と若干漱石風に書いたつもりだが、本当に困る短編。
あまり困るので調べたところ「日露戦争に対する反戦小説」と評価する人が割合多かった。

ただ、個人的にはすごく、いやあな小説。星なら1.2/5。

まずあらすじから。浩さん(どうでもいいが小川国夫を思い出しちゃうね)という日露戦争で戦死した友人の墓を弔う「余」が、さる美人に会う。「余」は浩さんの交友関係には詳しいがこんな女は知らない。浩さんが「余」に話さなかったとも思えない。
そこで「余」は、浩さんと女の関係は前世からの因縁【タイトル:(男女間の)「趣味の遺伝」の由来】によるだろうと検討をつけ調べると、「余」の予想通り浩さんのおじいさんが殿様の命令で許婚と仲を裂かれていた。
その結果(仏教の因果として)、浩さんと結婚話の持ち上がっていた彼女も添い遂げることが叶わなかったのだ。

探偵小説のオチを超自然的な―先祖返り―結末にしている時点でこの短編が相当香ばしいのが分かると思うが、もっと悪いのは、浩さんが「余」の友人ということである。
この設定さえなければ、「余」は単なる野次馬根性の男として不快感はありつつも読めたが、この設定だと
「戦死した友人の恋愛関係を「余」が興味半分で根掘り葉掘り聞きただす」
という、かなり胸糞悪い話になっている。(「余」は浩さんのお母さんに会いに行く、かつ彼の戦中日記を(合意とはいえ)持って行くのだ)

これはかなり初歩的なミスだと思う。読者の不快感を「あえて」引き出すのは作風だが、それには作者の十分な計算が必要である。
それが「趣味の遺伝」では「余」の行動を十分咎める存在がいない。
だからといって漱石が読者に向けて「余」の行動をわざと露悪的に書いた気配もない。そのノーマーク、ノーガード具合が余計に不快感を煽る。

この「余」の詮索精神は非常に軽薄なものである。これさえどうにかできれば、「日露戦争に対する反戦小説」で済んだろうし、「風と共に去りぬ」よろしく「戦争×恋愛」という、通俗の王道を行くこともできたと思うのだが……。

まあ、漱石でもこういう手落ちがあるのだと分かったことはせいぜいの収穫である。

(追記)ただし途中のイチョウの葉っぱの描写はきれい。
「枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背いて色々な光を放つ。」

……強いて「趣味の遺伝」を擁護するなら「余」の熱意と探究心が「他者」ではなく「自己」の方に向いたとき、それは私たちの知っている漱石―「私とは何者か」を追求し続けるあの漱石につながるのだろう。
またこの作品にも「門」で出てきた禅問答「父母未生以前本来の面目」が出てくる。
それは言い換えれば「他者なき世界の自己」と呼ぶべきものかもしれない。しかし漱石は他者との関係から身を離さなかった。私は漱石は正しかったと思う。金をたかられたり不安にされたり色々と大変なのだが。


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