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読書びより

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気ままな読書で感じたことや役に立ったことを書いています
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記事一覧

 すべて、何も皆、事のとゝのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。 (徒然草 第八十二段)  完成形を目指すのは良いが、そうしてしまうのは余情に欠ける。あえて、やり残した部分をつくる。なにをどう作るか、それが個性であり、創造性だ。

チェーホフ戯曲の短編『プロポーズ』と『熊』を読んで、クスクス。カフェや電車でなく部屋で読んでいたら、ゲラゲラ笑い声を出していたかも。 海外小説を読んでいて、翻訳にがっかりさせられることは少なくない。だが、浦雅春さんのこなれた文章は出色だ。原著以上の出来栄えではないか。知らんけど。

ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。  チェーホフ『ワーニャ伯父さん』 家族争議や失恋の痛手にも耐え、ソーニャは健気に立向います。失意の伯父をも励ましながら。

ヘルマン・ヘッセ『知と愛(ナルチスとゴルトムント)』 ヘッセとトマス・マンは親交があり ヘッセがマンにこの小説を送って評を求めました 読み始めたマンはどんどん引き込まれ それにつれて当然残頁が少なくなっていきます 読み終わるのを惜しみつつ一頁一頁を読んだとヘッセに書き送ったそう

『人間の建設』No.53「批評の極意」 №1〈「論語」と「国家」〉

 岡さんがプラトンに話題を変えて、小林さんに振りました。哲学の専門書ではないと小林さんが言いますが、わたしはプラトンは正に哲学じゃないか、現に以前「国家」を読もうとして挫折したのだから、と思います。  小林さんは、また「頭をはっきりと保って」と言います。でも小林さんだからいつでもそうできるのだろう、わたしなどはごく「まれ」にしかそうできない頭の造りなんです、と思ってしまいます。  でも、小林さんの話を読んでプラトンに再挑戦するのもありかなと思いました。挫折してもまた哲学に

『人間の建設』No.54「批評の極意」 №2〈その人の身になってみる〉

 年表によると岡さんは、1901年(明治34年)の生まれ。小林さんは、翌1902年(同35年)の生まれです。ぼくの親世代よりさらに一世代以上の開きがある計算です。  祖父は私の少年時代に他界して、父から「大東亜戦争」(太平洋戦争)のことを聞いたのも断片的です。特攻隊の話を聞いた記憶もありません。本で読んだりテレビの特番でみただけです。その父も、もういません。  特攻隊員の心境とは、どんなものだったでしょうか。父母や身近な人たちを守りたい、この戦争で犠牲にしたくない、そのた

『人間の建設』No.55「素読教育の必要」 №1〈はっきりした教育〉

 小林さんが前章のプラトンの話題からガラッと変えて、江戸時代の寺子屋式の、岡さんの素読教育をするべきだとの論述を取り上げます。寺子屋といえば、いわゆる「読み、書き、算盤」ですね。  武士や僧侶などの知識階級の人が先生となって庶民に教育を施す。うまいシステムを考えたものです。識字率など、江戸時代の民度が当時の諸外国に比べても非常に高いものだったと聞いたことがあります。 「開立の九九」とは巻末注で「ある数や代数式の立方根を求めること」とあります。三乗九九とも言い、1³=1、2

『人間の建設』No.56「素読教育の必要」 №2〈理性の正しい使い方〉(終)

 素読の意義について小林さんが力説しています。素読は、音読でもありますね。かつて読書は音読が常識であって、黙読で読むことは、歴史的にはまだ浅い、と聞いたことがあります。  古典は音読に適していて、現代文は黙読に適するようにできてきた。そもそも風土記などは古老の口伝が文字に置き換えられて定着したり、古事記などは口述が文字に置き換えられたものですよね。  中学・高校の国語の授業ではよく古典の暗唱が宿題になったのを思い出します。「奥の細道」「方丈記」「源氏物語」などの冒頭部分で

『人間の建設』No.52「記憶がよみがえる」 №3〈なつかしさと記憶〉

 この小林さんの発話は、前段の末尾で岡さんが語った「懐かしいという情が起こるためには、もと行った所にもう一度行かなければだめです。そうしないと本当の記憶はよみがえらないのですね」を受けた言辞です。 「不易」は一般に考えられている、固定した価値観のようなものではなくて、詩人の直感であり、幼児のときの思い出に関連していて、そこに立ち返ることを、芭蕉が不易と呼んだのではないかと小林さんは言います。 「「一」という観念」の章でした。赤ちゃんに鈴の音を聞かせる。初め振ったときは「お

『人間の建設』No.51「近代数学と情緒」 №3〈なぜ、かわいいのか〉

 前段で岡さんは数学と情の関係について話しましたが、ここでは仏教の考えに言及します。光明主義、なぜ全能の如来(ほとけ)と無能な個人(ひと)の間に交流が起こるか、仏が人を救済しようとするのはなぜか。  乱暴かもしれませんが、仏を人に、人を犬猫に置き換えれば理解がしやすいのではないでしょうか。賢いから、役に立つからかわいい、それもあるかもしれません。でも犬猫は、ただただかわいいのですね。  動物は喋らない、人がすることはできない。あるがままで、それが自然です。人も小賢しく仏の

『人間の建設』No.50「近代数学と情緒」 №1〈三つの数学〉

 本書では「函数」表記していますが、私の場合をいえば学校で「関数」と習ったと記憶しています。実は、両方の表記が流通しており、片方の表記が誤りというわけではないようです。  過去から「どっちやねん論争」もあったようですが、ここでは本書に従い「函数」と記させていただきます。それで、数学には三つあって「幾何学」「代数学」「解析学」なんですね。  古代ギリシャのピタゴラスの幾何学が最も古くからあったように私はイメージしていましたが、正解は「解析学」だと。函数とは二つの数の関係を言

『人間の建設』No.50「近代数学と情緒」 №2〈「函数」のみらい〉

 小林さんが、函数の現状について岡さんに質問しました。それに対して岡さんは、複素数という数学の概念に関連づけて函数の発展について触れ、予言的なことも仰っていますね。数学史の類型から推測されたのでしょうか。  さて、数の概念がそれまでの実数の世界であったのを、虚数というものを導入して数を一般化しました。二乗して「-1」になる数を虚数「i」としたわけですね。高校時代、これを習って〈え”~〉と驚愕した記憶があります。  複素数というのは、実数と虚数の足し算で表しますが「コーシー

『人間の建設』No.49「はじめに言葉」 №4〈言葉のちから〉

 前段からの流れでこんどは岡さんから小林さんへ問いが発せられます。小林さんのような文学者であればなおさら、言葉こそが考えることの原点でしょうねと。  ところが、少し意外な答えを小林さんが述べるのです。「考えるというより言葉を探している」。そう言えば小林さんの著作に『考えるヒント』がありました。それを読み返せばここで仰ていることのヒントがあるのかも。 「文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね」と小林さんは続けます。それくらいに言葉というものが文学者

『人間の建設』No.48 「はじめに言葉」 №3〈言葉と方程式〉

 私など素人が思うに、数学の論文などはほとんどが数式でところどころを文章でつないでいるという構図を想像します。ところが岡さんによればそれは違うということです。たいていが文であると。  論文と比較対象にはならないとはおもいますが、数学で身近な書物といえば学校時代の教科書。とはいっても、もう残っていないので確認しようもありませんし、どんな記述のあり方だったのか記憶も薄れています。  小林さんの抱くイメージも、私とその点では大差なかったかもしれません。それと、文とはいっても小説