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『人間の建設』No.37 無明の達人 №1〈再び、ドストエフスキー〉

岡 (ドストエフスキーは)自分の中に両極を持っていたんでしょうな。悪い方の極がなかったら、よい方の極もよくわからないといえるかもしれません。
小林 そうかも知れません。だから、「白痴」というイメージがどうしてもドストエフスキーにしか浮かばなかったのは、無明の極がトルストイよりもよほど濃いのです。……トルストイには痛烈な後悔というものがあるのですが、ドストエフスキーに言わせれば、自分の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物しろものではないと言うかも知れません。そこまで無明があの人を取り囲んでいました。そういうところが、ドストエフスキーとトルストイの違いです。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 いまドストエフスキーの「白痴」の、全四巻中第三巻の前の方を読んでいます。主人公のムイシキン公爵は絵にかいたような善人のイメージで、ロゴージンという登場人物が対極の悪人。絶世の美女、ナスターシャをめぐる関係が描かれていきます。

 ところで、登場人物のだれかが長広舌をふるう場面があるのですが、その多弁がまるで洪水のようで語彙の過剰に圧倒されそうなのです。ドストエフスキーの小説を読むときの独特の感覚かもしれません。

 ともあれ、まだ完読してこそいませんので感覚ですが「白痴」はまさに絶好のテキストといえるのではないか。お二人の話に出てきた「善と悪の両極」ということに関してです。

「後悔などで片付くような簡単な代物ではない」とは、なんという無明の深さなのでしょう。とても私のような凡人のたどりつくことのない景色を、ドストエフスキーは垣間見させてくれる。この得がたい体験に感謝したいと思います。

‐―つづく――




※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。


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