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『人間の建設』No.41 「一(いち)」という観念 №2〈数学者における一という観念〉

小林 子供が一というのを知るのはいつとか書いておられましたね。
岡 自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 岡さんは、人間は成長にしたがって一というのがわかる時期が来る。それは十八ヵ月、一歳半のころであると言っています。

 小林さんは岡さんの文章を読んだそうなのでご存じですが、私は出典を知りませんので推測ですが、岡さんの子育ての経験からそういう仮説を立てたのかもしれません。

 岡さんがいかなる天才であろうとも、お釈迦様でもあるまいし、自分の生後十八ヵ月のときの記憶に基づく話ではないと思うからです。

岡 数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。……そのときの一というものの内容は、生後十八ヵ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。

 この辺りの会話は、前段とは逆に岡さんが完全に主導権を執っています。自分の領域ですからね。小林さんは一言二言返す程度です。

 数学者が、幼少期の体感で手に入れた一という観念を生理的に使っている岡さんの想像も面白い話と思います。

 ここの部分で意外なのが「数学は一というものを取り扱いません」という岡さんの言葉です。実は、この章の標題〈「一」という観念 〉に関係するのですが、冒頭の引用に先立って次のような会話がありました。

小林 岡さん、書いていらしたが、数学者における一という観念……。
岡 一を仮定して、一というものは定義しない。一はなんであるかという問題は取り扱わない。
小林 つまり一の中に含まれているわけですな、その中でいろいろなことを考えていこうというわけでしょう。一という広大な世界があるわけですな。
岡 あるのかないのか、わからない。

 一を仮定して、一というものは定義しない、一の世界があるのかないのかもわからない、のですか……。数学というよりは哲学めいた会話ですね。あるいは禅・宗教のような。

 岡さんがあるお坊さんから、「一とは何かは、悟りの境地に達しないとわからない」と言われたとか。われわれ凡夫には、到底わかりえない奥深い感じがする話です。

 日常生活や人と会話するうえで、一がわかるわからないという話はふつう出てこないし、それこそ、一が何かは分かっていなくても支障は出ません。だからこそ、皆平気で一を使っているし、疑いもなく一が分かっている顔をしています。

 おふたりの、一にまつわる話はこの後も続きますがどんな話でしょうか。次回にご紹介します。このような対談を読むおもしろさ・醍醐味は、知ってるようで知らない世界へいざなってくれることが、その「一」でしょうね。



‐―つづく――

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※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。


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