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DNAの旅「直木賞候補作のモデルとなった祖母」前編

自分のルーツを辿るシリーズ。私が大きく影響を受けたのが、2005年に亡くなった母方の祖母。享年85だったが、見かけもそして頭の中もずっとずっとそれより若かった。祖母はいわゆる有名人ではなく、一般の女性であったが、可愛がっていた姪が彼女をモデルにひとつの小説を書いた。2005年の直木賞候補になった「ハルカ・エイティ」(姫野カオルコ著)がそれ。実は、姫野氏は私の親族で、「ハルカ・エイティ」は彼女が初めて親族をモデルに書いた小説であった。

祖母は、端的に言えば「小説にしたくなる」ような人物。本人はドラマチックに生きようとしたわけではないのだろうけど、周りから見ると与えられた中でこれ以上無いくらい存分に生きた人に映る。

「与えられた中で」というのは、大正生まれの祖母が、戦争や敗戦など、様々な時代の波にさらされ、現在あるような人生の自由な選択肢がない中で生きてきたから。でも、実際の彼女は時代の波に飲まれるどころか、たくましくスイスイと泳いでいた。そのことが、小説となっていろんな人に力を与えているのだと思う。


「手をはなしたらあかん」

生前祖母に言われた言葉である。「女であることから手を離すな」という意味だ。そう、祖母は私が知る女性のなかでも、「女であること」にかなりのこだわりを持つ人物であった。祖母を語る上で、「女」は外せないキーワードなのである。

小さい頃から、祖母にはよく面倒を見てもらった。毎年夏休みには彼女の住む滋賀に妹と二人で帰省していた。まだ、私が小学生だった頃、風呂上りパジャマに着替えた私の後ろから、祖母が突然私の胸を触った。
「まだ、こんなもんかね、女の子は胸が大切なんよ」。
子ども心にぎょっとした。この人はやっぱり普通のおばあちゃんとは違うな、と感じていた。

私が高校生くらいになると、「好きな人はいるの?」と聞いてくる。「いるよ」と答えると、「ひとりだけ?」。あのー普通好きな人は一人だと思うのですが…。そして、生年月日を聞いて、勝手に占いをはじめる。年頃の女の子だから、そういうことに興味がないわけではない。私もいろいろと話すようになり、祖母は私の恋愛相談の相手になった。

いまどきの若いもんわ・・というスタンスではなく、「キスはまだか」とか「その人モテる?」とか、まるで同世代の友達と話しているかのよう。大正生まれではなかったか??
そして、大学に入ったころから、私は彼氏を一人暮らしをする彼女のところに連れて行くのが恒例になった。親に会わせる前に、デートと称して彼女の住む滋賀まで出かけて行っては家にあがらせて、一緒に食事。
後日、祖母の感想を聞く。「あの人は、いまいちだね」「前の彼の方がよかったわ」「ああいう人は、女にモテるから気をつけなさい」色々とアドバイスを受けた。

最後まで「女」を生きた祖母

祖母は、祖父が68歳で亡くなったこともあり、滋賀の家で20年以上も一人暮らしを続けていた。滋賀の田舎暮らしが物足りない祖母は、定年後も週に一度は大阪の短大で講師の仕事をしていて、毎週講義の帰りに梅田に出て買い物などを楽しんでいた。「ハルカ・エイティ」冒頭には、都会に出てホテルの最上階のラウンジで一人お茶をし、ウエイターと会話する祖母の姿がある。そんなささやかなひとときが、いつまでも「女」である彼女には必要だったのかもしれない。

髪は短くショートカットにして、いつもとびきりおしゃれな服を来ていた。「イケてるばあちゃん」として青年誌のグラビアを飾ったこともある。亡くなった年も「この前タクシーの運ちゃんにナンパされた」と嬉しそうに自慢していた。

ある時、祖母が作家である姪(姫野カオルコ氏)に自分の半生を小説化することを前提に語っている、というのを耳にした。本人曰く、「自分としては『冬ソナ』っぽいのが希望なんやけど、編集者が真面目で、『朝ドラ』みたいな小説にさせられそう」とのこと。少々不満がありそうだったが、やはり本人は自分の半生の小説化をとても楽しみにしていた。ところが、小説が世に出る直前に、元気だった祖母が倒れた。

祖母が倒れたのは、日帰り町内旅行の夜だった。バスの中で歌を唄って皆を盛り上げ、着いたホテルで温泉とビール。丸一日散々楽しみ、帰宅してお風呂に入ろうとお湯を張っていた最中に、激しい胸の痛みが彼女を襲った。「大動脈解離」という致命的な病気であったにも関わらず、自ら離れて暮らす娘(私の母)と民生委員の方に電話をし、救急車を要請した。

「手術しなければ、命は助からない。手術したとしても成功するのは2割位」。そう説明されて、まだ意識のあった祖母は「一か八かやっておくんなはれ」と医師に命を託したという。

結局手術は成功せず、祖母はそこから完全に回復できないまま、半年ほど入院して亡くなった。

祖母が倒れた日、駆けつけた私達はとりあえず祖母の住んでいた滋賀の家に泊まることになった。祖母は元気なままバッタリ倒れたので、家の中はさっきまで祖母がいた日常のままだった。

その日着ていた服の洗濯が途中だった。日帰りバスツアーでくたくただったろうに。私なら洗濯はきっと次の日だろうな。下手したら、脱いだ服とか
そのままになってるかもしれない。
そして、居間にはデパートから届いたばかりのセンスのいい洋服が箱に入ってあった。机の上には雑誌の切り抜き。なんと韓国のイケメン俳優のもの(笑)85歳だよ。まいったまいった。

そんないつもと変わらぬ日常を残し、祖母は逝ってしまった。こちらとしては、突然のことで消化できない部分もあったが、「小説にすることを前提に姪に自分の人生を託す」ということが、祖母の遺言のように思えた。

結局小説は彼女の意識が十分に戻らない2005年10月に「ハルカ・エイティ」というタイトルで発売になった(ハルカというネーミングは祖母が考えた)。病床の祖母に小説を見せたが、本人が認識できていたかどうかは定かではない。そして、小説が「直木賞候補になったよ」と伝えた数日後、祖母は静かに息を引き取った。

ワーキングマザーの走りだった祖母

祖母を語る上で「女」と同じくらい外せないのが「仕事」である。祖母は今で言う「ワーキングマザー」の走りだった。

祖母は当時スタンダードだったお見合い結婚をし、その後すぐに夫(祖父)が出征するという、いわゆる戦争を生きた世代。終戦後、幸運にも祖父は生還し二人の間には一人娘(私の母)が生まれた。

結婚生活は最初から波乱含みで、夫(私の祖父)は大きな会社を辞め、事業を始めたが安定せず、両親、夫婦、娘の一家5人を養うことができなくなる。祖母は娘を滋賀に残して夫のいる大阪に出て働くことになった。

今のように女性が結婚後職業を持つことが当たり前でない時代。祖母は「叶うなら宝塚歌劇団に入りたかった」と言っていたが、もちろん職を選ぶということもできず、とりあえず見つかった近所の電池工場で働き出した。今で言うパートである。しかし、電池工場も業績不振に陥り、継続して働くことが難しい状況になった。

そんな折、たまたま見つけたのが新聞の「市立幼稚園の教諭募集」の広告。というのも、祖母は父親が校長先生という家に生まれており、あたりまえのように教員免許や幼稚園教諭の免許を持っていた。宝塚歌劇団とは程遠い地味な仕事だが、パートの電池工場よりはよっぽど安定した収入がある。迷わず応募をし、めでたく採用された。

祖母の仕事が安定してきたため、傾きかけた一家の生活は少しずつ安定し、娘を大阪に呼び寄せて、大阪での一家3人の生活が始まった。とはいえ、住まいは商店街の布団屋の二階の六畳一間。経済的に相当苦しかったことが伺える。

最初は「生活のため」に働き出した祖母だったが、そこからどんどん仕事にのめり込んでいく。「宝塚歌劇団に入りたかった」彼女が、保育や幼稚園教育に熱意あったとは思い難いが、仕事に就いてからは誰よりも保育のことを熱心に勉強した。子どもたちにとって「よりよい保育」を追求し、国内外の保育について徹底的に学んだ。個人的に海外への視察なども行っていた。

実は、当時祖母がまとめていた保育のノートがあるのだが、それは日々の業務のための勉強を超えて、「保育の研究」にまで及んでいる。現在でも保育の現場で行われている「自由保育」について、研究と実践を行っていたようだ。各地の研究会などでも発表を行っていて、新聞に載ったこともあると聞いた。その結果、祖母は幼稚園で主任、園長、そして教育委員会とどんどん出世。晩年は短大の講師にもなり、「保育原理」の講義をしていた。

当時祖母は、幼稚園教諭の仕事だけでなく、夜は家庭教師のダブルワークをしていたという。その結果、数年後には六畳一間を脱出し、一戸建ての家を建てることができた。

結婚も、夫の事業失敗も、働くことも、仕事の内容も、すべて祖母が自由に選んだものではなく、選択の余地なんてほとんどなかった。現在、何不自由なく生きる私達からすれば、さぞかし不自由な時代を生きていたに違いないと想像するが、祖母は与えられた場所で、最大限のことをし、それを楽しんでいた。

不遇な夫を「受け入れる」妻

義理の両親と娘を抱え、六畳一間で生活しながら働き詰めの祖母。その頃、祖父はどうしていたのかと言うと、「事業で一旗揚げる」と頑張っていたが、成功できずにいた。和歌山に衣料品の工場を建て、地元の農家の主婦を雇いなんとか事業を軌道に乗せようとしていたが、結果がついてこなかった。その後も、何度か事業を起こそうとしていたが、どれも失敗に終わったという。

事実だけをいうと、一家を養う稼ぎのない夫である。おまけに、外に女の人がいたというのだからビックリ。

今風に考えると、祖母には立派な仕事や収入があるのだからそんな旦那にはさっさと見切りを付けて「即離婚」となるかもしれない。でも、離婚が一般的でない時代背景もあり、祖母には「離婚」という選択肢はなかったようだ。かといって祖母が、不甲斐ない夫に対して、そのことを責めたり、嘆いたりしたということもないようだ。娘(私の母)の証言によると、夫婦は喧嘩をしたこともなく、互いを責め合ったこともなかったという。

一体、どういうバランスで、この夫婦が成り立っていたのか。実は、コトはもっともっと複雑だった。

ーーー後編へ続く

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