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狐の正体

「跡を残して。でも記憶には残らないで。寂しくなってしまうから。一人で居たいけれど、独りで痛いのは嫌いなの。」

そう言う彼女の頬にそっと手を添えて、首元に口付けをする。彼女の柔らかく艶やかなその肌にじんわりと真紅の跡を残す。ゆっくりとゆっくりと滲み出す鉄分の匂いを微かに感じて、僕は目を瞑る。決して美しくないその跡の形はまるで僕ら二人の様だった。その跡を確認した彼女はまるで重力に従うように口角を下げる。

「上手になったね。初めての時はほとんど跡なんてつかなかったのに。あれ、私こんなところいつ引っ掻いたっけって不思議に思う程だったのよ?」
口角を元に戻して僕の手を握る。

「あんまり揶揄わないでおくれよ。僕は昔から変わってないよ、君の身体の方が素直になっただけだよ。」

「あら、女性の身体のことには触れないことよ、貴方には常識ってものが欠如してるのよ。私度々思っていたのよ、それ。」
ほっぺを膨らませて言う彼女にキスをしたくなったけれど、短時間で常識ってものが欠如してると2回も言われたくはなかったから我慢した。

「それは失礼なことをしたね、でも僕はそういった類の注意を受けたことがあまりないよ。」
実際のところ僕は人当たりがいいとよく言われるし、むしろ常識人の自覚があった。

「そういうところよ、自分で自分は常識人だと思ってるところ。私なんていつも自分を変な人だと頭を抱えているけれど、貴方がそうなっているところなんて見たことないもの。」

「それは、君が変に気にしているだけじゃないのか。僕だって猫を被るのが上手い自覚はあるんだ。もはや虎を被ってるぐらいさ。」

「貴方ね、常識もなければデリカシーもないのかしら。」はぁ、と浅いため息を一つ吐いて彼女は続けた。
「人が気にしてるって言うことにはあまり口を出さない方がいいわ、否定も肯定もせずに適当に流しときゃいいのよ。それとね、貴方は猫を被るのが上手いんじゃなくて虎の威を借ってるだけよ。狐よ狐。被るんじゃなくて化けるのが上手いだけよ。単なるインチキ男ね。」

「機嫌を損ねたのなら謝るよ、すまなかった。ちゃんと気をつけるよ。」あまりの言われように少し驚いたが、彼女の言うことも一理あるなと思ってしまった。

「いいわよ、許してあげる。でも本当は許したくないのよ、だって私こんなに怒ってるんですもの、それはもうあなたの想像のできる数十倍もの哀しみよ。だけれどね、私は大人だから余裕を見せなきゃいけないの。男の人の脳みそは下半身の中心にあるんだって、認めたくないことも認めるの。だから、許してあげるの。」

「猫を被ってたのは君の方じゃないか」
小さな声で呟く。

「なんかいった?」
満面の笑みを浮かべた彼女がこっちを見ている。その顔があまりにも愛おしくて。額にキスをした。

その後しばらくの間、ともに眠りについてから解散をした。一人になって、僕の身体には一切の跡がなく綺麗なままであることに気がつく。ただ、心にだけ深いシミを残した。シミが根を張りカビとなり心が蝕まれてしまう気がした。
 今頃彼女は僕が付けたぎこちない形を撫でているのだろうか。きっとそこに僕の影はないのだろうけど、跡だけが存在しているのだろうけれど。跡がなくなれば、また僕と会ってくれるだろうか。僕の記憶から彼女が消えたことはないし、跡もついたことがない。だから、痛いから。痛みから逃げたくて別人になる。僕は狐だ。

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