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ラディクル・シビックス|前編 ー 市民社会の萌芽、その可能性を実装する

Dark Matter Labs
Translated by Takeshi, Mai, Ryuichi

この記事は、ダークマターラボによるMedium記事「Radicle Civics — Building Proofs of Possibilities for a Civic Economy and Society」を訳出したものです。ダークマターラボの了解を得たうえで、日本語への翻訳と掲載を行いました。前半をセオリー、後半を具体的なプロジェクトの解説として二分割しましたが、本来はひとつの記事になっています。

タイトルにある「ラディクル」という単語は、植物のタネの中にある小さな胚を意味します。発芽時に種子から出る苗の最初の部分です。また台湾語では「市民」に対応する「adidan」という言葉があり、それは「根」や「基礎」を意味するそうです。ダークマターラボは、ラディカルを想起させる響きを持った「ラディクル」という言葉を使うことで、市民社会の急進的な萌芽というような意味合いを持たせているのだと思います。このあたりの詳細はプロジェクトのウェブサイトで読むことができます。

この論考では、マルチスピーシーズや都市インフラ的な視点に加えて、分散型テクノロジーという一見すると異なる要素が、システミックデザインという文脈の上でうまく接合されています。さらに、それらを机上の空論ではなく実証プロジェクトとして発現させ、具体的に実装しようとしています。その意味でシステミックデザインという潮流の先んじた実践事例とも言えます。ACTANT FORESTでは、2年ほど前に「Trees As Infrastructure インフラストラクチャーとしての街路樹」という別の論考をnote化しました。その視点はその後の僕たちの活動の重要な指針となりました。今回の記事もまた、今後の指針となるような示唆に富んでいます。

ACTANT FORESTは「Design with Nature」というコンセプトを掲げて活動をしてきましたが、実を言えば、既存のデザインへの批判性を持たせるためにあえて声高に「自然」を強調している向きもあります。少し先の未来には、近代の二項対立(自然/人間、前近代/近代、脱成長/グリーンテック、工芸/デザイン)はおそらくは溶け合っていくでしょう。自然や人間を含めたすべての存在が相互に依存した関係性の中で、暮らしやインフラがデザインされることが、極めて当然なことになる。わざわざ「with Nature」と主張する必要もなくなる。そう思わせてくれる論考となっています。


はじめに

「コンピューターのオペレーティングシステムのように、インフラストラクチャーというメディアは、あることを可能にし、あることを不可能にする。それは、表に出てくるコンテンツではなく、むしろゲームのルールを支配する管理者のような存在だ」
— ケラー・イースターリング『Extrastatecraft』(2014年)

私たちが利用しているインフラは、現代生活の複雑性を支えるために不可欠なものである。だが、それが技術や制度、私達の行為が依存する状態を生みだし続けているという役割は、過小評価されがちだ。一旦インフラが構築されると、私たちがどのように社会を組織化するかは、何十年、あるいは何百年もの間、そのインフラをベースとした慣習や既得権益、規模と範囲に関わる経済を通じて、左右され続ける。このことはしばしば、実体のない、常識に反するような、破壊的な方法で起こる。言い換えれば、私たちがインフラを形成したあと、インフラが私たちを形成するようになり、引き続き影響を及ぼしていく……ということだ

アンドレ・ゴルツは「The Social Ideology of the Motorcar(自動車の社会イデオロギー)」という論考の中で、この循環的な論理を次のように説明している。「自動車は大都市を住みにくいものにしてしまった。臭くて、うるさくて、息苦しくて、埃っぽくて、混雑していて、夕方になれば誰もがもう出かけたくなくなるほどだ。こうして自動車が都市を殺してしまった以上、高速道路でさらに遠い郊外へ逃れるために、もっと速い自動車が必要になる……自動車をもっとよこせ。自動車が引き起こす破壊から逃れられるように」

経済インフラも、道路やコンクリートジャングルとさして変わらない。これらもまた、私たちを搾取的で有害な隘路に追い込んでいる。資本、市場、(知的)財産権制度、土地登記、GDP、その他の成果指標は、一見、私たちの社会の公然たる基礎を成しているように見える。しかしそれらは、巧妙に狭い範囲に狭められた中央集権的な価値定義に基づいていて、近視眼的で収奪的な行動を助長する。エリック・バインホッカーが提唱する「オントロジー・スタック(存在論的積層)」のレンズを通すと、GDPは単なる・・・指標ではなく、ある世界観が埋め込まれた重層的な経済インフラの氷山の一角であることがわかる。それは人間を、合理的で利益の最大化を目指す、脱埋め込み化された存在と捉え、位置づけるような世界観だ。

インフラ的な想像上のロックイン

こうした経済と社会の構造的な制約によって、私たちは今まさに閉じ込められようとしている。私たちが直面しているのは、気候や生態系、経済的不平等、民主主義などが相互に結びついた複数の危機である。これらは、世界そのものの危機ではなく、私たちと世界との関係性、そして私たちが私たち自身をどう理解するかに関わる危機なのだ。これはディープコード(規範)の問題、つまり、自分たちを規定する条件をどう定めるかという根本的な問題である。

私たちを規定している現在のコードは、啓蒙思想家たちによって記述された。彼らは、人間は個人の権利と自由を与えられ、取り囲む世界から抽象的に切り離された自律的な存在であるというナラティブをつくりだした。人間として在るということは、考えるということだ。自然は、人間が歴史を生きるための単なる背景に過ぎず(Mills, 2016)、ひどい場合には、無限に採掘し消費できる資源と見なされることもあった。工業化、資本主義、消費主義は、人間を人間であることからさらに抽象化し、自分たちの、そして他者の疎外された労働を通して、私たちを「質の悪いロボット」につくり変えてしまった。エドマンド・バークが啓蒙主義に影響された革命家たちに警告したように、「自由もまた、所有するためには制限されなければならない」。その制限が社会的ないし生態学的な結びつきに対する責任であるかどうかはともかく、こうした制限が侵されれば、今度は私たちが自由を享受する行為自体が侵されていくだろう。

人間-自然、生産-再生産といった何世紀にもわたる存在論的区分は、規制や金融、建築などのインフラに強力に組み込まれている。それは、私たちが支配し、搾取し、廃棄し、浪費することを可能にしてきただけでなく、同時に私たちを、この現実のうちに構造的に閉じ込めるものでもあった。これまで外部性として退けてきた存在が、今まさに自分たちの存在そのものを脅かすという自滅的とも言える危機として、私たちは啓蒙主義的なコードの結末を受け取っている。多くの人々がこの症状に対する応急パッチやその場しのぎの解決策を提案している一方で、私たちは、自分自身を、そして世界における自分たちの存在を再コード化することが唯一の出口であるという仮説を立てている。イースターリングの言葉を借りれば、「ゲームのルール 」が壊れてしまったら、それは、ルールそのものを変える時なのだ。

私たちに必要なのは、自分自身を「流れの結び目(knots of flows)」のように、不可分に相互接続された関係的な存在として再認識することだろう。自分たちの生活や都市や社会を、社会生態学的システムとさまざまな関係の網からなる複雑な有機体として捉えるような、関係性にもとづく世界観が必要とされている(Engle, 2022)。インフラを再設計し、この複雑な絡まり合いを中心に据えて、すべての存在——人間であれ、未来の人間であれ、人間以外の存在(モア ザン ヒューマン)であれ——が個別に、また集団として繁栄できるようにしなければならない。

「流れの結び目」というレンズを通して世界を見るとはどういうことだろうか? 一見シンプルそうなダイニングテーブルを例に、このことを探ってみよう。ダイニングテーブルは、土から始まって木になり、木から材木になり、材木から複数の加工・輸送段階を経てテーブルとなる。そしてそれは、食べるため、遊ぶため、絵を描くため、仕事をするために使われ、多くの社会的・経済的・文化的・感情的価値の流れを提供することだろう。時が経つにつれ、テーブルは転売やリサイクルを経て、異なる価値の流れを持つ別の家庭に入ったり、あるいは新しいテーブルや椅子、紙の材料となる。やがては、堆肥化されたり、土に還されたりして、新たな価値の流れへと変容していくだろう。

市民社会の未来を芽吹かせる可能性の実装

ブルーノ・ラトゥールは「手段となる道具だてを変えたならば、それに付随する社会理論全体が変わることになる」と言った。この半年間、ダークマターラボは「ラディクル・シビックス」という一連のプロジェクトでまさにこれを実現しようとしてきた。つまり、絡まり合いを認識し、相互依存やケア、深い民主主義を中心とする新たな社会理論を可能にするために、その道具だてと市民生活の基盤となるインフラに変化を加えようとする試みだ。

私たちが、市民社会(civics、以下「市民社会」と訳す)に焦点を当てるのは、それが構造の基礎として重要なものであり、ディープコードの諸問題に対処するためには、社会契約が国家や政府を通して結ばれるという大前提にまで立ち戻って手を打つ必要があるからだ。私たちにとっての市民社会とは、従来の代議制民主主義や国境で区切られた国家、中央集権制度などをはるかに超えるものを意味する。市民社会はむしろ、社会的関係の中で最も本質的なもの、つまり社会組織の形態が生まれていく、私たちの相互の依存関係から出発する。この意味で、市民社会を新たに想像し直すことは、プロセスと結果の両面に関わるものとなる。求められるのは、こうした相互依存関係を担う「市民」についての理解を、人間およびそれ以上の存在にまで広げること、そして私たちがお互いにどのように関わり合い、相互作用するかを、強制的なものではなく、共感的で、互いにケアしあうようなピアツーピアのシステムに向けて構成し直すことである。そのような市民社会の再構想を通じて、私たちはリニューアルされた市民資本(civic capital)と社会のレジリエンスを培うことができる。このことは、意図的であるかどうかを問わず、権力の過度な集中に対する防波堤として機能しながら、コレクティブに繁栄していくことを可能にするだろう。

ラディクル・シビックスは、パートナーズ・フォー・ア・ニューエコノミースコットランド土地委員会オプス・インディペンデンツからの財政的・戦略的サポートを受けて、「ドーン川プロジェクト」や「欧州ローアンドポリティカル・プロジェクト」、「ロンドン・デザインミュージアム」など、多様なパートナーとの活気あるエコシステムを構築しつつある(さらに増えていく予定だ)。彼らとともに、私たちは数々の実証プロジェクト(proofs of possibilities)を通じて、新たなシビックインフラのための種を蒔いてきた。それは、私たちがいかにして隣人や環境と関わることで市場や貨幣を超えた価値を認識し、より深い民主的エージェンシーを育てることができるかに関わる新しいロジックを体現するための、直感的な体験や現場での実験である。これらは、エリック・オリン・ライトが「リアル・ユートピア(real utopias)」と呼ぶものや、ギオルゴス・カリスが「カウンターヘゲモニーのインキュベーター (incubators of counter-hegemony)」と呼ぶものに似ている。というのも、これらの実証実験は、ファンタジーのような空想ごとではなく、むしろ、具体的かつ文脈的にオルタナティブな未来を出現させ、新しいパラダイムを私たちの「日常(everyday)」の一部にする手助けをするものだからだ。それらは、現在共有されている市民的なプロトコル(civic protocols)を更新することによってだけでなく、イザベル・シュテンガーの言うコミュニティそれぞれの文脈における「コモンセンス」のように、市民の「共通の意味や意義を創り出す」ことによって実行される。

新しい「日常」に向けたの私たちのビジョンは、自分たちの住む「家」と「土地」、そして「川」との関係に焦点を当てている。これら自然の、あるいは人工的なインフラは、日常生活の極めて重要な基盤であるという点において、私たちが世界におけるさまざまな在り方や関わり方を探求し、再構築し、実践するための理想的なレバレッジポイント(介入すべき点)を提供してくれる。その目的は、私たちを囲むシステムの内に漂うダークマター(目に見えない暗黒物質)を再構築することで、いかにしてありうべき未来を再構築することができるのかを示すことだ。デイヴィッド・グレーバーの言葉を借りれば、「世界の究極の隠された真実[…]それは、世界は私たちがつくり上げているものであり、簡単に異なるようにつくり変えることができる[訳注:簡単に違うものをつくれるのに、そうでないと思い込まされているという真実]」ということを発見できるのは、まさに私たちの日常体験の中でなのだ。

では、私たちの家や土地や川を、現在の経済に組み込まれた客体化(objectification)、支配(dominion)、収奪(extraction)の論理から解放すると、一体どのようなことが起こるだろうか? 地球規模での生命の絡まり合いから疎外された状態を乗り越えて、誰もが何も所有せず、または他者によって支配されることはないと認識することに、どのような意味があるだろうか? 私たちが共有しているインフラはどのようにして自由になり、その自由の中で、私たちと私たちを取り巻く世界にどのような自由を生みだすことができるのだろうか? ロックインから解放されたシビックインフラに向けたこれらの挑発的な問いは、ラディクル・シビックスの4つの実証プロジェクト(proofs of possibilities)として具体化されている。

フリーハウス、フリーリバー、フリースペースについて、以下で詳しく紹介していこう。 フリーランドについては、いずれ別記事を公開する予定だ。

私たちは、コレクティブな探求と実験のすべてを、3つの重要な世界観のシフトに結晶化しようと試みてきた。私たちは、これらが新たな社会理論やそれに対応するシビックインフラを生み出す萌芽になると信じている。その3つのシフトとは、「モノからエージェントへのシフト」、「外部性から絡まり合いへのシフト」、そして「公共-私有の関係からコモニングへのシフト」である。進行中の実証プロジェクトのどれもが、これら3つの根本的なシフトのためのマニフェストとして具体化されている。


前半はここまで。具体的なプロジェクト内容が記述された後半はこちらから御覧ください。


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