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女優には向いてないけど上がる幕 おやすみ明日もショー・マスト・ゴー・オン

毎朝女優にならなきゃいけない。今日も、尊敬できない人のことも尊重しているような演技をする。社会人を演じろ、私。そうじゃなきゃ、世間という舞台ではやっていけない。

「この人は社会人として尊敬できない」。
そう思うと、急に真面目に取り合う気が起きなくなる。だって少なくとも、報連相を徹底するという、社会人として最低限のルールすら守っていない。なんかもう従っている法律というか憲法が違うレベル。

目の前には、私より遥かに歳上かつ社会人歴も遥かに長いくせに、事前の相談もなくいきなり無茶な要求をふっかけてくる営業。なお、もちろん内勤部署や協力会社への配慮は何もない。
受注に際して、営業からクライアントへの交渉調整は一切無し。それこそ「お客様は神様だから」と言わんばかりに、スケジュールも量もクライアントの希望だけをそのまま言い募る。


物理的に不可能だといくら伝えても「でもクライアントの希望なんで」「それを何とかするのが仕事だろうが」と食い下がる。いやいや、希望を全て聞かなきゃいけないなら最終的に「無料でやってください」とかの要求も聞くことになりかねないでしょうが。その理屈がなんで通じると思うんだろう。
それでも彼は希望要望をつらつらと伝えるばかりで、やっぱりこちらへの譲歩は一切ない。いやまだ受けられるとも言ってないでしょ。えっなんで?部署が違うから上下関係もないはずだけど、一方的に要求を突きつけて交渉を受け入れない理由とかある?

あああもう、まさか「お金払ってるんだから」「お金貰ってるんだから」を盾に駄々をこねる大人が、本当にこんなにいるなんて思わなかった。
とりあえずこの場を切り上げるために、死んだ目で口元だけ女優スマイルを浮かべて「かしこまりました、一度上にも直接相談した上でスケジュールを固めて、協力会社にも相談しますね」と台詞を吐く。全然何もかしこまってないけど。でもあくまで台詞だからいい。意味は深く考えなくていい。


もうこの人を更生しようなんて考えることは諦めた。他人と過去は変えられない。他人の過去の蓄積なんてなおさら変えられない。ならば外部から圧力を掛けて丸め込もう。そう、この人の上司に交渉しよう。そう電話を掛けて、声優モードにスイッチを入れる。
繋がった電話の向こうの営業課長は、名乗りもせずいきなり「はい」。そしてこちらの名乗りと挨拶に「お疲れ様です」の返答も前置きも何もなく、いきなり「ああはい、何ですか?」から話を始める。
あああああ、もおおおおお。報連相どうこう以前の問題だ。挨拶するという文化がない世界の人だ。やっぱりこの上司あってのあの部下だよなぁ知ってた。

この時点で内心ストレスで死にそうになる。なるから、いつもより半音高くて喉にちゃんと力を込めた声を出して守備力を上げる。
あーはい、無理ですよね。通じませんよね。こうかはいまいちのようだ。
なんでこの口で社会人としての常識だとか、企業倫理なぞを説教できるのだろう。私の中であなたに常識や倫理などないのではという風評被害が出ていますがその矛盾はどう説明いただけるんでしょうか。ていうかそもそも、規定のスケジュールを無視する言い訳を企業倫理だの企業努力だのにすり替えないで欲しい。
そう思いながら、もう今はコールセンター職員の演技をしているのだと言い聞かせてひたすら相槌を打つ。


そもそも嫌いなんだよなぁ電話。いくら無茶なことを言われても証拠が残せない。
だから以前「発注内容はメールで共有してください」と部署からお願いしたら、なぜか「メールだと事務的すぎる、話を聞いてくれないのが嫌だ」とか言う人が多くてびっくりした。問題、そこなの?この無茶振りは、あなた達の中では無茶振りではなくコミニュケーションという括りだったの?
いや、共有漏れや「言った・言わない」問題が発生する方が嫌だし困るじゃん。あと個人的に、他人の作業を強制中断してまで電話してくる人間が好きじゃない。と言いつつ今自分も電話してるけどねー。

脳内で独白を続けつつ、口からは自然と覚えたわけでもない台詞がペラペラ出てくる。
ああごめんなさい課長。あと先輩。私じゃ交渉失敗しそうなので、多分頼らせていただきます。もう泣きたいし何喋ってるか自分でわかんない。それでもすぐ隣で後輩が電話を聞いていたりするから、自動で「頼れる先輩」っぽい役に入ったままでいられる。板に付いて来たなあこの役も。



結局、営業課長と仲が良く気に入られている先輩が、調整を買って出てすべてを丸く収めてくれた。
クライアントへの仕様や対応スケジュールの説明は、先輩に丸め込まれた営業課長が対応し理解をいただいた。協力会社にも見限られることのないスケジュールで依頼ができ、売上を無事確保できた営業にも恩を売れた。先輩には取り急ぎ、最寄のコンビニで買ってきた新作スイーツを献上した。
あー。そもそも好感度の問題はあれど、先輩女優にはまだまだ叶わない。叶うとも思ってない。先輩、電話する前、私より文句言ってたのにね。そんなことはおくびにも出さない完璧な演技だった。

社内チャットで先輩にメッセージを飛ばす。
『夜、デニーズ行けますか?もしくは駅の反対口のサイゼリヤ』
『今日はラム肉が食べたいわ』
『ラム肉分は奢らせていただきます』
こうして今日も打ち上げのような何かを開く。


仕事終わり、会社最寄りのファミレスは楽屋だ。
ちなみに居酒屋ではなくファミレスなのは、ひとえに大人になってもぐいぐいお酒を飲めるようにならなかった私の体質と、結婚資金を貯めている先輩の懐事情による。

「反省会」
「今日も仕事を辞められませんでした」
「そうだけどそうじゃない」

そんな茶番を皮切りに、お礼と謝罪、および傾向と対策を練る会が始まる。
私はもうすっかり演技を止めて素だけれど、先輩は退勤後もキラキラしてて女優感あるなぁ。フォークを持つ手の指先、月に2回サロンに通っているネイルは、今日もきれいに整えられている。まだ生え際に隙間もなく、根元まできっちり塗られたグレージュ。でもこれも先輩による「先輩」の役作りのひとつかなぁ。


私は1日8時間しか演技ができない。定時を超えて残業時間に突入すると、もう役を取り繕っていられなくなる。
「社会人」とか「OL」とか後輩にとっての「先輩」の役とかをかなぐり捨てて、ただただ早くおうちに帰りたいだけの人になる。
でも先輩は、いつでも「先輩」だし「綺麗なOL」だし、帰っても彼氏さんの「彼女」だし凄いなぁ。
たぶん、演技を演技だと思わずに、無意識でTPOに合わせた振る舞いができるんだよな。うん、やっぱり私、社会人の演技というかコスプレというか、向いてないわ本当に。
そう確信して、ポップコーンシュリンプの最後のひとつを口に放り込む。



打ち上げの終わりは次の劇の始まりで、帰宅は翌日の始業までのカウントの始まり。
また幕を上げるのを少しでも先送りにしたくて、ダラダラと3時間ファミレスに居座ってしまったけれど、先輩には同じ家に帰っている人がいる。

「じゃあね、おつかれ」
「今日もお疲れさまでした、そしてありがとうございました」
「明日も頑張って生きようね」
「頑張りたくないです」
「余裕があったらまた助けてあげるから」
「今日も先輩の家の方角に祈りを捧げてから寝ますね」
「ビールを捧げなさいよ」

帰り際の茶番もいつものエチュード。さよなら先輩。おやすみ先輩。私は今日も、明日の幕が上がるのが嫌だから、逃避のためにきっと夜更かしします。2時前くらいに祈りを捧げますね。


明日の朝も女優にならなきゃいけない。明日も、相容れない人にも好意を持っているような演技をする。社会人を演じろ、私。そうじゃなきゃ、続けなければならないショーの幕が上がらないから、明日も戦う。


何かを感じていただけたなら嬉しいです。おいしいコーヒーをいただきながら、また張り切って記事を書くなどしたいです。