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靴下味のジュース

突然だが私はコーヒーが好きだ。コーヒーを飲むことも好きだが、淹れる過程の方がもっと好きかもしれない。手動で一杯分の豆を挽き、フィルターに入れて、お湯を注ぐ。注いだ瞬間にふわっと立ち上がるコーヒーの匂いは自分で淹れる人にしか味わえない至福の瞬間だろう。

このコーヒーを「淹れる(brew)」という行為は、ヨーロッパ人にとっては珍しいようで、私が学部のキッチンでコーヒーを淹れ始めた時はこぞって私の奇妙な行動を観察し始めた(彼らのほとんどは実験心理学者(人間の行動に興味がある人)である)。

ヨーロッパといっても広いので全ての国でそうというわけではないが、コーヒーといえばエスプレッソ(およびエスプレッソ由来の何か/アメリカーノとかカフェラテとか)を指す。私の住んでいるハンガリーでもコーヒーといえば当たり前のようにエスプレッソだ。

最近では日本のフィルターコーヒーが流行りなので、サードウェーブ系の小洒落たコーヒーショップに行けば、ハンドドリップコーヒーを飲むことができるのだが、どこでもあるものではない。なので、私は自分の家から野田琺瑯の赤いケトルとステンレスフィルター(紙フィルターは日本から輸入しているものばかりで日常使いには高いのだ)を持ってきて、毎日自分で淹れているわけである。

他の人がコーヒーマシンやネスプレッソでボタン一つ、ほんの数秒でコーヒーを入れている中、私だけが十分ほどかけて一杯のコーヒーを淹れている。ある人はまるで一連の儀式がティーセレモニーのようだというように感激したり、ある人はたかがコーヒー一杯のために不要に(非合理的に)時間をかけているのかと面白がってきたりする。どちらも「さすが日本人」というのでどちらも日本人の性質として見られているようだ。

ある日、いつも通りコーヒーを淹れていると、フランス人の同僚が近づいてきて「フィルターコーヒーの方が好きなの?味薄くない?フランスではアメリカのフィルターコーヒーを揶揄して『靴下味のジュース(Jus de chaussettes)』って言うんだよね。」と教えてくれた。

全く知らなかったのだが、どうもヨーロッパではアメリカ式のフィルターコーヒー(例えばスターバックス)は味のわからない連中が飲んでいる不味い飲み物と思われているらしい。むしろ喫茶店では同じように「淹れる」タイプが主流の日本で育った私はその言葉に衝撃を受けた。

それにしても『靴下味のコーヒー』、想像するだけでとても不味そうである。個人的には淹れ方よりも使ってる豆の質によって味が決まるのではないかと思うが、こういう五感に直接働きかけるユーモアのある表現はフランス人ならではだなと思った(ちなみに似たような表現はヨーロッパ他国でも見られるよう)。

さて散々な言われようなフィルターコーヒーであるが、今は日本の文化を通して逆にヨーロッパではスタイリッシュな新しいコーヒー文化として根付き始めている。同じことでも文脈が違うとこうも違って評価されるし、人々もまたありがたくその文化を享受しているところを見ると、何だか人間は滑稽だが愛らしいなと思うのである。