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Something Greatとお蔭様

    20世紀前半に活躍したアインシュタインはこの世界を考えるParadigmを変更させるほどの業績を残した無知な私でも名前くらいは知っている偉大な物理学者です。その彼が、ある記者に「神はいると思いますか?」と質問された折、次のように答えたそうです。

  「この世の中をつぶさに見て、これほどの調和が、なにか計り知れない偉大な存在なしに実現しているとは思えない。」と。

  ですからアインシュタインは、godという表現を避けて、something greatと発言したわけです。この「この偉大なる何者か」は、人によって、地域によって、神と呼び、仏と呼んでいると考えて良いと思います。

  本当のところ、言葉で言い表せない存在だという認識があるわけです。しかし存在というものは表現されないことには意識できないですから、多少感じは違ってくるにしても、皆それぞれに工夫して表現したのでしょう。

  「これほどの調和」とアインシュタインが言う内容は、私の能力では知ることは出来ませんが、例えば、雪の結晶がどうしてすべて六角形になるのかも人間にはまだ説明できないわけです。宇宙に行って来た人々もそうですが、むしろ最先端の科学を学んだ人ほど、人知の及ばない世界に触れることになる。

  よく人は「神も仏もあるものか」などと罵ったりするわけですが、それは自分の理屈理論では収まらない事が起こった場合です。自分の考えた理屈に、神や仏が収まるはずがありません。

  結局、神とか仏というのはある意味で「分からないこと」の象徴だと言えるのかもしれません。分らないことは、この世界に満ちていますし、科学が進歩しても少しも減りません。科学としての因果律は確かにあるのでしょうが、しかしそれは決して見届けられるものではないようです。今の行為がどのように結果するか、それが私の目の前で起きるとは限りませんし、私が生きている間に起きるかどうかも分かりません。

  ですから私たちには分からない、直接見ることの出来ない因果律のことを「お蔭様」と呼んで尊重することになる。ある意味で、神とか仏というのは、そうした我々が感じられない、そうした遠大な因果律を統率している存在なんじゃないかと私は何となく感じています。

ところで私たちは大きく分けると、自分の外側の調和と自分の内部の調和とを感じて来ました。中国で生まれた「自分」という言葉も、「自然」の「自」と「分身」の「分」の短縮形だそうです。

  聖書の預言者アブラハムの神を受け継ぐとされるユダヤ教、キリスト教、イスラム教はどちらかと言うと外側の神を重視しているようですが、いっぽう仏教では、唯識という考え方が、どの宗派にも染み込んでいます。つまり世界は、私たちの心の中の認識のありよう次第というわけですから、基本的には外側の調和を感じる為の人間の内側の調和を中心に考える傾向が強いようです。

ヨーロッパにも、「メーテルリンクの青い鳥」のように、夢の中でチルチルとミチルが、外側へ幸福の象徴である青い鳥を探しに行きますが、結局、幸福を象徴する青い鳥は家の中で見つかるということがあるようです。

幸せというのは、自分の外側にあるのではなく、案外自分のすぐ近くにあり、そして自分の心の持ちようだということを教えてくれた物語でした。

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