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エレガントな尊重

個別化という資質からくる苦手なタイプ
ストレングスファインダーの話しをしていて、私の上位資質に個別化というのがあった。
ざっくりいうと個々の特徴や資質に注目する、ということ。
ここからくるのかもしれないけれど、「自分は人と違う」を押し付けられることが苦手だ。
このことは源氏物語の香りを創った思い出の中で、朝顔斎院が何故好きかといNOTEで少し触れた。(後掲)
自分だけというのが、だいたいにおいて苦手なのかもしれない。
自分だけが、
・人と違う
・悪い
・頑張っている
・わかっている
・間違ってる
・楽しんでる
・覚えてる
・あの時言ってた
・正しい、、、

きっと,そう言わないと壊れそうなのだろうね
何かの反作用なのだろうか。自分だけというレッテルがないと心もとないのか、繰り返し粘り強くこの主張はなされる。
そうされるとうんざりする。そこには、自分以外はすべてみな同じとして、その眼前の私という存在についての特徴も個性も見出そうとしない関わり方に怒りと悲しみの感情があるのだと思う。
唐突だけれど、言語やビジュアルと違って、香りというのは「自分だけが他と違う」を主張しづらい領域で、サロンではこういう人に出会うことはない。
(ストレングスファインダーのコーチからは、このような人に出会った時、上手にその人に、他者にもいろいろな違い、個性があるよということを伝え、理解してもらえいいね、という宿題をもらった。)

優美な心の動き
他者を尊重する気持ちがない発言の中に、「自分だけが」と言わなければ自分を否定してしまいそうで怖い、というその人の危うさを感じる。
この「自分だけが」を捨てても「自分」を認められる心の動きを私は「エレガント」と言っているのだと思う。それはやはり優美な心の動きなのだ。

誰しもが相手により、時と場合ににより、エレガントさを損なってしまう
同じように、「自分だけが」とまではいかないけれど、昨日までのNOTEにも再三出てきた他者を牽制し、抑圧し、支配しようとする関わり方。これは明確に品性にかけるので、エレガントではない。同時に当然ながら他者を尊重する優美な心を持ち合わせていない。
以前にまとめたけれど、このエレガントの欠如は「人」とリンクするものではなくて、「時と場合」にリンクするのだと思う。
どうしても、誰かを相手にした時、ある状況において、心の動きが優美さを損ない、エレガントな尊重を書いてしまう、ということであって、エレガントな尊重ができない人がいる、ということではないのだと思う。

安全地帯と荒野の行き来
同時に私自身の心の中で、支配しようとする人、支配できていることに喜びや優越感を感じている人に対し”エレガントじゃない”とラベリングすることで自分の心を落ち着かせている向きもある。
社会は楽園ではない、完全な安全地帯でもない、かといって危険地帯ということでもない。安全地帯から抜け出した先の荒野のようなものだと思う。その先には危険地帯がある。
エレガントな尊重は安全地帯では完全だけれど、荒野に出たときに、互いにエレガントな尊重が必要になる。
荒野には新しい体験や刺激があるはずだから、進んでそこに踏み込むことも必要なのだ。
その時に優美な心が働けば、やがて自分の安全地帯が拡張される。
私のサロンは安全地帯と荒野の境目を行き来しているようなものかもしれない。
すくなくとも、自分の心の中から、蔑みや卑下、憐憫などを極力追い出して、いつでも、だれにでも「尊重されている」という実感を味わっていただけるようにしたい。

朝顔斎院のNOTE

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