20181120_言の葉の庭

好きなことを好きと言うこと

 お正月に録画した新海誠監督の『言の葉の庭』は、ずっとハードディスクに保存されたままで、再生されることはなかった。ようやく観たのは、録画後1ヶ月が経過した2月だった。

 私はドラマを観ることは好きなのだが、映画を観ることがどうにも億劫で、普段あまり観ることがない。だから、なかなか『言の葉の庭』を視聴する気分にはなれず日数が過ぎていった。けれど、その重い腰を上げ、ようやくこの映画を観終わって最初に思ったこと、それは「もっと早くに観ていれば良かった」ということ。想像以上の素晴らしいストーリーに私は驚いた。

「おいおい、雨降りすぎじゃねーか」
「やべー俺も靴作っちゃおうかなー」

 などと軽薄なことを思いながら途中まで観ていたのだが、ラストシーンで主人公の男子高校生と女性高校教師の二人が、互いに胸の内に溜め込んでいた感情をありのままにさらすシーンがとても美しく、新海誠作品の特徴である映像美よりも、この二人の感情が露わになる瞬間が最も綺麗で最も気持ちの高鳴るシーンだった。 

 人間がありのままにその感情をさらす。その感情はネガティブな感情であってもかまわない。普段見せることのない、見せたくない感情は誰にだってある。その感情をストレートに表現された時の美しさ、そこに私はいつも心が揺さぶられてきた。だから、人間の心の機微が表現される小説が好きなんだろうし、人間の強さも弱さも区別することなくすべてさらけだしてやろうという、凄まじいまでの意気込みと覚悟が曲から感じられていた昔のMr.Childerenが好きなんだろう。

 ファッションにおいてもそうだ。

 私が好きだったデザイナーたちがいる。それは2000年前後のアントワープ勢だ。ドリス・ヴァン・ノッテンやアン・ドゥムルメステールといったアントワープ6たち第一世代の次に登場してきた、ヴェロニク・ブランキーノ、リープ・ヴァン・ゴープ、ラフ・シモンズといったデザイナーたちだ。

 私がアントワープの服に惹かれたのは、服そのものに革新性があったからではない。当時のアントワープ勢はその高い注目度とは裏腹に、服自体はベーシックがベースになっていることが多く(もちろん例外はある)、同じアントワープでも、マルタン・マルジェラみたいに服を問い直すデザインではなかった。

 私がアントワープのデザイナーたちに惹きつけられた理由、それは彼ら彼女らの作る人間の弱さに優しく手を差し伸べるダークロマンティックな世界観だった。人間の弱さを肯定するアントワープの世界は暗い(少なくとも私にはそう感じられた)。

 しかし、そこにある暗さは射し込む一筋の光を見上げた時に見える闇だ。絶望で覆い尽くされた暗黒の闇ではない。かすかに見える希望の灯火に照らされた闇だった。弱々しくとも、そこに向かって歩く力を与えてくれる。アントワープの世界には、そんな優しい弱さがあった。あれから20年近く経った今でも、私はアントワープのデザイナーたちの作った服が好きだ。

 最近、思う。

 好きなことを好きと言うことが、言いづらくなった世の中だと。

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