山本太郎を懲罰にかけることは、痴漢を取り押さえた人に「お前は暴力をふるった!」と言って罰を加えるのと同じくらい意味不明である、というお話。

私は別の論考で民主主義や議会の原則に基づけば、山本氏の行動(実力行使)は何の問題も無いということを論証しましたが、今回それとは別の形で、たとえ物理的接触があったとしても、山本太郎氏の今回の行動は責任を追及されるべきではない、ということを論証します。
話のメカニズムとしてはずっとシンプルで、まずはこんな思考実験から始めたいと思います。

電車の中、あなたの目の前で痴漢が女性のお尻を触っている。
女性は恐怖のあまり声が出せない状態。
あなたはそれを止めるために痴漢の手をつかんで引きはがした。

さて、ここでのあなたの行動を「暴力だ」と言えるのか?ということです。
「物理的に接触して、強制的に手を離させたのだから、それは確かに暴力だ」と認めてあなたは責任を追及されるべきなのか。

「いや、与党は痴漢みたいな犯罪者じゃないでしょ」
という反論が当然出てくると思います。
しかし、残念ながら実は今回の与党の議員たちについては、事実上犯罪者と同等、もしくは犯罪の協力者だと言わざるを得ないという事情があります。

今回の入管法改訂に関しては、改訂のために必要な根拠としての
「難民認定の審査は適正に行われている」
という主張が虚偽であったことが国会で明らかになっている。
(自民党の法務大臣自身が認めている。)

つまり「難民として認めてください」という申請が一律で門前払いにされていることが実態だと判明したのだ。しかし与党側はそれ以上の議論を拒否して採決を強行した。

この状態で新しい入管法が採決されてしまえば、日本に逃れてきている本当に保護の必要な難民は、申請を一律で却下されて入国を拒否された後、即本国に強制送還となる。
デモに参加しただけで有罪とされ、何年間も投獄されたり、殺されたりするような本国に、だ。
同性愛者であるだけで有罪とされ刑務所に入れられる国もある。

山本太郎が人として見逃すことができなかったと言っているのは、こうした事態が強行採決によって作り出されてしまうのを危惧してのことなのだ。

つまり理不尽に身体を拘束したり殺人を行うマフィアのような連中の手に、みすみす何の罪もない犯罪被害者を引き渡すのか、という話だ。
むしろそっちの方が犯罪者の要求に応じて暴力に加担しているのではないのか?
山本代表の行動の背景にあるのはこうした疑念であり、我々も至極当然の感覚だと同意できるはずである。

だから、ここまでの話を踏まえて、冒頭のたとえ話を今回の状況により近く設定するのなら次のようになるだろう。

電車の中、あなたの目の前で痴漢が女性のお尻を触っていたとする。女性は恐怖のあまり声が出せない状態。
あなたはそれを止めるために痴漢の手をつかんで引きはがそうとした。
ところが痴漢の握力は強く、なおも女性の尻を触り続けている。
触り続けてはいるが痴漢は「痛い!」と声を上げた。
そうすると、あなたと同じ車両に乗り合わせた他の乗客が突然叫び始める。
「痴漢は手を掴まれて怪我をしている!ねん挫かもしれない!暴力だ!」と。

そもそも法は何のためにあるのかを考えて欲しい。
法は一人一人の人間が理不尽に命を奪われたり、財産を奪われたりしないようにするために存在する。
これには誰もが直観的に同意できると思う。
そして実際、そのために日本は国際法である難民条約を批准して難民を人間として守っている。
今回の山本代表の実力行使的な行動に対して「無法である」「不法行為だ」と批判する向きもあるが、法は実際の適用に際して法の原理原則や、その法が存在する根本的な目的・意図に立ち返って常に検討されなければならない。これは理想論でも何でもなく、法の運用上の現実であり事実だ。
そうである以上、山本氏の国会での行動は不法行為、暴力として責任を問われるべきなのかについても、法の原理原則や法がそもそも何を目的としているのかというレベルにまでさかのぼって検討されなければならない。

つまり、何かが「暴力」であるのかどうかについての判断を行う際に、いったい何を目的としてわざわざ法で規定しているのかを考えるべきだ、ということであり、結論から言えば、何かが暴力なのかどうかについて、一律に即物的な基準だけで、つまり「物理的接触の有無」だけなどで判定されてはいけないと言うことだ。
もしそんな判定方法で済ませるのなら、現実において絶対に必要とされるはずの物事の善悪の判断を無視した、紋切り型の結論しかありえないことになる。
思考実験として提示した例え話においても、当然痴漢の手に「接触」して、それを被害者から「強制的に」ひき剥がしたあなたは「暴力」をふるったとされて有罪になる。
それを正しい判断だと認めるのですか?という話だ。

もしそれを認めないのであれば、あなたは物事の正当性について、単なる物理的な基準に沿って判定しているのではなく、それ以上のことを行っていることになる。
それが「物事に是非を付ける」「善悪の判断をする」ということだ。
日本人は「正義」や「正しさ」という言葉を仰々しく、押しつけがましいものとして忌避するが、それが実際に意味するのは実はこの程度のことであり、「正義」や「正しさ」に基づく、ということが、例として出した「痴漢を取り押さえるエピソード」に対してのあなた自身の自然な判断を振り返ってみれば本来は押しつけがましさとは無縁の、ごく普通に受け入れられるものであることが分かってもらえるはずだ。

さて今回山本の周りで起きている騒動を痴漢の例え話に従って分析していくなら「痴漢被害者」は難民である。そして犯罪者たる「痴漢」は誰なのかと言えば、帰れば理不尽に死刑にされる可能性すらある本国に、難民たちをまともな審査もしないまま門前払いにして追い返すことを無理やり決定した与党の議員たちだ。
つまり「暴力を振るわれた!」と言い立てて騒いでいるのは、驚くべきことに例え話において「痴漢」の側に該当する人間たちなのだ。

確かに、入管法改訂の採決の強行に賛成した議員たちは、処刑や拘禁などの理不尽な迫害を本国で難民に加えている犯罪者本人(独裁者や本国政府など)ではない。しかし言ってみれば「犯罪(本国政府による難民への処刑・拘禁など)が行われていたとしても見て見ぬふりをしましょう。我々には関係ないので」と堂々と主張している人たちではあるわけで、例え話を少し変形させるなら、

女性(難民)に対して刃物(本国での処刑など)を突き付けている犯罪者(自民党議員)を止めるために、山本太郎がその犯罪者の腕をつかんで刃物を叩き落そうとしたら、犯罪者本人(自民党の議員たち)と、同じ車両に乗り合わせていた他の乗客たち(与党の懲罰に賛成する野党の議員たち)が寄ってたかって「山本が暴力をふるったぞ!」と騒ぎ立てている

という状況になっているということだ。こう考えると現在の懲罰動議騒動がどれだけ異様なものなのかがよく分かると思う。

そもそも「何故、その男(痴漢・刃物を持った犯罪者)が腕を掴まれなければならなかったのか?」と言うことの方が問題であるのに、単に「接触したことが暴力だ」と言い立てて本来解決すべきの難民の問題(たとえ話で言うなら「犯罪行為の被害者が実際に存在する」ということ)に目を向けさせないように誘導までしてくるのでは、山本氏への懲罰に賛成している議員たちは「犯罪の片棒を担いでいる」と批判されても仕方がないのではないかとすら思える。

「暴力」を理由に懲罰動議をチラつかせる自民党側の議員たちの言い分を認めてしまえば、「何が本質的に暴力であると言えるのか」「暴力の本質とは何か」というような純粋に哲学的な議論に巻き込まれることになる。
そしてこれは「やるだけ無駄」なことでしかない。私はこの手の議論で結論が出た例を一つも知らない。
だから、実際に必要なのはそんな形而上学的議論に答えを出すことではなくて、その場で行われている現実の犯罪(実際の国会の話としては、本国政府からの理不尽な迫害・虐待・殺害などの犯罪行為の対象になっている難民を審査もせずに門前払いして強制送還すること)を見逃さず、それを停止させて被害者を助けることの方であるのは明白だろう。

日本人の多くが「物事の真偽は理屈では決定できないし、理屈に裏打ちされた正義など想定すべきではない」と漠然と思っているが、まずは、
「考えて意味のある理屈」
「考えても意味のない理屈」
の二種類が少なくとも存在する、という程度には区別をつけれるようにしておかないと、「理屈にもいろいろある」という現実を見落として二つを混同してしまい、「暴力の本質とは何か」「〇〇は暴力と言えるのか」のようなバカげた形而上学・純観念的な議論に永遠に揚げ足をとられることになる。
一方その傍らでは大きな悪が見過ごされて、現実の社会の状態が改善することも遠のかざるをえない。考えてみれば、日本社会においてまともな改善案や改革はいつもこうしたやり方で潰されて来たのではないのだろうか?

だが本来、我々は「他人の腕をつかむことが暴力なのかどうか」という「哲学的」議論よりも先に「他人の尻を触るのは痴漢という犯罪であり、そんな行為は停止されるべきだ」という現実の判断を優先して行ってよいのであり、また実際に現実においてもそのように優先してある判断を行い、それに従って行動している。
というかそうしなければ現実の問題など何一つ処理できない。
いい加減、今回の件で「山本に非がある」と考えてしまっているような、眠れる日本人の方々はその手の「形而上学についての無意味な夢」から目を覚ますべきだろう。

この論考での例に従って現在起きている現象をまとめるなら、与党、および立憲・維新などの懲罰に賛成する野党の議員たちと、それを支持する一部の国民たちは、痴漢と言うあからさまな性犯罪は見過ごすくせに、それを阻止する目的で「痴漢の腕をつかんで引きはがそうとした人物(=山本)」に対してだけはごく小さな過失も一切許容しないという実におかしな態度をとっていて、それを懲罰動議として表面化させているのだと言える。

山本の行動を「暴力だ」と非難する人々は、「痴漢の腕を掴まずに痴漢による性犯罪を停止させる方法」を具体的に提示するべきであろう。
つまり山本を非難する前に、そもそも強行採決を行った与党議員たちの側が「難民が確実にこの国で安全に保護を受けられる状態」を保証するべきなのだ。
しかしそうしたことは一切なされていない。

他方、山本太郎側に問われている「暴力」とは一体何なのかと言えば、司法当局によって傷害事件として立件・認定もなされていない以上、実質的には、
「被害者も痴漢も、どちらも共に痛い思い、嫌な思いを一切せず、全てが丸く収まる」
というような、空想としてしかあり得ない、非現実的な完全平和の理想状態を勝手に脳内でこしらえた人たちが、「その完全平和の状態から山本の行動は逸脱していた」という、現実とは全く関係の無い、純粋に観念的な理由だけに基づく意味しか持っていない。彼らの「空想」に従って山本を裁いたところで実際に何かの役に立つことはないし、(少なくとも表向きは)誰にも何のメリットも無い。

我々は、山本太郎を巡るこの騒動について「正当性についての二種類の問題」のどちらを優先するべきなのかという選択を実は迫られている。

「痴漢の腕をつかむ行為が本当に暴力ではないと言い切れるのかどうか」
についての純粋に形而上学的な議論を選択して、その正確な回答を確かめることに我々は興味があるのか。

もしくは、そうではなく、
「目の前で行われている犯罪(≒難民全員見殺し政策の採用)に対して、その被害者を助けるために我々には何ができるのか」
という具体的な問題についての議論を選択し、我々がするべきことについて何が正しく、何が間違っているのかを確かめたいのか。

そして後者の議論を選択するべきだと判断するならば、本来するべきはずだったその議論は一体誰によって打ち切られたのか。
「痴漢や犯罪者に対しての見て見ぬふり」とでも言うべきその行為を、無理やり「全員の従うべき決定事項」として押し通そうとしたのはどの党なのかということが必然的に問題になって来る。
問われるべきはそもそも山本の「暴力」についてでないのは明らかだろう。

以上、山本太郎の今回の行動(法務委員会ダイブ!)を「暴力だ」と咎めだてして懲罰の対象にすることが、被害者を助けるために痴漢を取り押さえようとした人物に対して「お前は暴力をふるった!」と言う理由で厳罰を加えることに等しい愚行であることは論証の通りである。
しかも本来の問題である犯罪行為(比喩としては痴漢。実際には「難民全員見殺し政策」)は与党側の手によって放置されたままであり、「難民全員見殺し政策」の採用を決定した者たちの責任も全く問われないままになっている。
悪いのは何なのか、本当に問題にすべき悪事を見て見ぬふりで済ませようとしているのは誰なのか。
まともな審査も無しに追い返される難民たちは、そのままの意味で「自民党に殺される」人たちだと言えるのではないのか。
山本氏の体を張った抗議を機に、国民全員にもう一度考えてもらいたいと思う。




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