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【長編小説】 異端児ヴィンス 8

 ――「どうして? 逃避することが悪いことだとは思わないけど……。誰だって根は怠惰だし、時には辛い現実から目をそむけて休憩することも必要だよ。それに……」
「やめて。わかってる。そんなこと、わかりきってるじゃないの、レイ。あなたは独創的な人だと思っていたから、何か斬新なことを言ってくれるんじゃないかと期待していたの。なのにあなたが、そんなありふれた、オウムみたいに誰もが口を揃えて言ってるような意見をくれるなんて……」
「ごめん」
 レイモンドは、決まり悪そうに言った。それから、あわれみを垂れるような目つきでちょっと私の方を見た。
 私は少しだけ哀しい気持ちになって、彼の顔を覗き込んだ。今言った言葉は本心ではない。彼を独創的だと思っていたなんて嘘だ。いつも優しい声で、明らかにどうでもいいような話ばかり繰り返す、本当にオウムみたいなレイモンド。彼が通り一遍のこんな返事を返すことはわかりきっていた。私は心地いい彼の声のトーンに聞き惚れることに甘えて、それに慰めを見出そうとしていただけだったのだ。そもそもものごとを一歩突っ込んで考えてみようとしない、思考するということを最初から放棄しているように見える彼みたいな人間に、今の状態を切り開く突破口を与えてくれるような斬新な意見を望むこと自体が間違っていたのだ。と言うより、それがわかっていて私は彼のことをわざといじめたようなものだった。
 でも確かに今、〝正常〟なバックグラウンドを持つレイモンドが私のことを混乱した可哀想な奴、と思いながら見ているのは、曲げようのない事実だった。そしてそのことは私をいっそう哀しくさせた。
 少なくとも、彼には私にはないハートがある。そう心の中で言い聞かせて自分を納得させた。
「ありがと、レイ。私ちょっと今日は疲れているみたい」
 私はそう言い、後半のクラスをキャンセルして帰るために立ち上がり、事務局へ向かった。
 
 
 次にパブに行ったのは、クリスマスも間近に迫った頃だった。テオと私は相変わらず微笑みながら穏便に暮らしていたけれど、言葉にならない倦怠感のような雰囲気と、互いに互いとの距離を計りながら慎ましやかに交わされる会話のあとに漂う、どこまで行っても二人は平行線を辿っているに過ぎないのだという感覚が、私をひどく自堕落な気持ちに追い込んでいたのは事実だった。
 ……微笑みと心地よさの裏に潜む危険……
 そんな言葉を心の中で呟きながら、私は久方ぶりに夕刻アパートを出て、夜の帳が下り始めた街へ出ていった。
 サン・ロラン通りに面したデュー・デュ・シエルの扉を開けると、勿論ヴィンスはいつもの席に座を占めていた。彼が毎日同時刻にやってきて、カウンターの一番隅の席にきちんと座るのは、誰もが知っていることだった。それはいつしかこのパブの風物となり、すでに彼はここの備品ででもあるかのように、店に同化していた。
 他の常連客達がまだ現れていないのを認めると、私は真っ直ぐにヴィンスのところへ向かった。そして、
「ハイ、ヴィンス。ご機嫌いかが? こないだ街であなたを見かけたよ」
 彼の隣に座るなり、突然声をかけた。
 ヴィンスはしばらく私の顔を見ていたが、いきなり、自分の前にいる女はいったいどこの誰だと言わんばかりに不可解な顔をした。
 目をまん丸く見開くと、彼は始めた――
「ハハー! いったいゼンタイ誰のことについて語ってるんだい、このリトル・ガールは!? 街で俺を見かけた? フン、どこの街でだい? ダウンタウンか、それともプラトーかい? そうさ、そりゃさもありなん、だろう? このヴィンスは曲がりなりにもこの市中に住んでいる。彼は地下鉄にも出没するし、マーケットにも参上するよ。この俺がコート・デ・ネージュ辺りの坂道をうろつくことしか許されてないと思ってもらっちゃ大間違いだぜ?」
 彼の剣幕の凄さに私は驚いたが、しかしにべもなく彼は続けた……。
「そうさ、モントリオールじゅうを網目のような行動経路を辿りながら動き回っている俺のことを、ある日お前さんがその節穴のような目で目撃することだってあるには違いないさ。だけど、いったいお前さんは確かにそれが俺だったって、証明することはできるのかい? ……まあ証明なんてくだらねえものは必要ねえが、要するにだな、お前さんがこのパブの外で俺を見かけたってことが、ここで口に上らせるに値するほど、それほどに重要なことなのかいってことだ」
 私は怒濤のように押し寄せてくる彼の言葉の奔流に押し流されないように、スツールの端を握り締めて、足を踏ん張っていなければならなかった。
 彼の機嫌の悪いのはいつものことだが、今日は輪をかけてひどいようだった。しかもすでにかなり酔いが回っているらしい。……だが、ここで引き下がり言い負かされてしまうわけにはいかなかった。私は思い切ってその言葉を口にした。
「だってあなた、女性と一緒だったでしょ。美人と会うからって、綺麗な格好しちゃってさ。だから私、冷やかしてやりたかったのよ」
 私は舌を出し、小さくウィンクして見せさえした。しかしそれとは裏腹に、まるで獰猛な動物に向かって用心深く近寄っていくハンターのようなスリルを覚えていた。
 すると意外なことに、ヴィンスは虚を突かれたように突然押し黙った。それはまるで、私のそのひと言が彼の強固な防御壁に一瞬にして大きな風穴を穿うがってしまったかのような唐突さだった。彼の周囲に張り巡らされていた攻撃的な空気が一気にしぼんで、ヴィンスは私の目の前で見る見る威勢を失っていった。
 しばしの沈黙があり、その間私達はただ互いに見つめ合っていた。
「あれは……」
 やがてヴィンスが言葉を漏らした。ひどく気まずそうな様子だった。
「あれは、俺のソーシャル・ワーカーだ」
 そのときヴィンスは、苦汁を吐くような表情をした。私はこれまでに、人間のそんな顔を一度も見たことがなかった。
「女と歩いてたからって、それが恋人とは限らんさ。美人か何か知らんが、そもそもあの手の女が俺のような男とまともに付き合うと思うか? そんなわけないだろう? 職もない、家もない、一文無しのこの俺とよ」
 ちょうどあの頃から金回りが悪くなってずっとここへ飲みに来ることも叶わなかったのだ、とヴィンスは話した。あの日はソーシャル・ワーカーに会って仕事と住むところを紹介してもらう相談をしていたのだということだった。
 その話し方は訥々とつとつとしていて、いつもの調子に比べて随分と歯切れが悪かった。それもそうだろう、他人に自分がいかに困窮しているかを話すのなんて、誰にとっても愉快なことではないのだから。
 そして気まずさと動揺を物語るかのように、ヴィンスはその間一度も私の目を見なかった。まるで私の存在を無視するかのように、心を閉ざしてしまったかのように、彼はただ虚無的な表情になって、目の前の空間や、店の他の場所にばかり視線をわせているのだった。

 何かが欠落していた。私とヴィンスが意思を通じ合わせるための、大切な何かが。それはほんの小さな一過性のものに過ぎないことはわかっていたけれど、それこそ私たちが束の間共有していた疎通性コミュニカビリティにほかならなかった。その大切な橋渡しを失って、私はただ絶句するしかなかった。ヴィンスの目。大きく見開かれた、まるで宇宙そのものがその中にすっぽりと収まっているかのような、謎に満ちた目。それがあまりにも深く、色々な感情を投げかけるので、私はそれ以上の質問をする手がかりをすっかり失ってしまった。

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