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【長編小説】 異端児ヴィンス 12

 週末は、いつも独りで過ごした。私は本を読み、借りてきたDVDを観、そして今週一週間を振り返るための長い日記を書いた。その週に行ったこと、人に話したことや逆に人から聞いた話、そして心の中で考えたことや感じたことを、できる限り全部余すところなく書き出すことにのみ注力した。これはなかなか時間と集中を要する作業で、しかしやり出すとどんどん楽しくなってきて止まらなくなった。私は土曜の夜から日曜日にかけては、ずっとこの作業に没頭していたのだった。
 この「まとめ」の作業は、混乱に苛まれバラバラに分解してしまった気持ちの行き先をひとつの方向へ集約することに大いなる助けをくれたと思う。人は何かひどいストレスを受けたときや、大きな失望を感じたとき、得てして逃避する方向に向かうものだけれど、私にとってこの方法は、厳しい現実に真っ向から向き合うのみならず、ある意味では目の前にある現実から抜け出すことを可能にする心やすい逃げ道になった。私は文章を書きつけているあいだ、束の間にせよそこに到達することができた。テオとのこと、ヴィンスの事件、新しく滑り出した生活……。それらのことについてクヨクヨしているには、私の一週間はあまりにも多くの人々に囲まれ、多くの事柄に関与していた。今の自分の生活は、無駄な作業や交流を削ぎ落としたこれ以上はないくらいシンプルなものだと思っていたけれど、ひとたびそれをすべて書き残しておこうと決心したならば、細かい街の描写から個性あふれる友人たちの特徴について(何しろそれらは私のもっとも愛するものであり、実にバラエティに富んでいるものなのだから!)、そして物語のテロップのように次々と展開していく日常の小さな小さな出来事たちは、書きつけておくに充分足る価値を持っていて、私の筆をまるでベリーダンサーの腰のように目まぐるしく動かしてくれるのだ。
 けれど、卑屈としか言いようのない、恥ずべきひとつの引っかかりがあった。私にとって週末とは、あまり外に出たくない心理的な事情も含んでいた。表へ出れば、幸せそうな家族連れやラブラブのカップルの姿を、否が応でも目にすることになる。週末というのは、その種類の幸せを発散してはばからない人々が出没し、そして週末の街路や公園は、ほとんどその人たちのためのものなのだ。私のような心に傷を負った者が出て行っては危険な領域なのは勿論のことである。
 私には、リラックスした幸せな人々が往来する休日の大通りはもっとも避けるべき場所であり、例えば早朝の人気のない公園であるとか、険しい顔をした人々が忙しそうに行き交う出勤時間帯のオフィス街、もしくはフランス語学校が始まる時間、人々が温かい晩餐を囲んで和やかな会話を交わしている窓から漏れ出る灯りを尻目にせっせと学校へ向かう、路上にあまり人のいない夕刻の時間帯こそがふさわしいのだった。そんな中で、さらに卑屈なことは、私がいまだにテオからの電話を待っていることだった。
 あの日カフェで彼に電話をかけてから、ずっと私は待ち続けていた。テオに時間的余裕ができるであろう週末にはきっと、もしかすると土曜の夜か日曜の朝に電話がかかってくるかもしれないと想定して、毎週末私は誰ともアポを取らず体を空けていた。
 だが、彼から電話がかかってくることはなかった。時折、おごそかな音色で日曜の朝九時に鳴るスマホに飛びついてみると、上松稀一からのランチの誘いだったり、職場の仲間からの来週のシフトを交代して欲しいという依頼の電話だったりした。私は前者はやんわりと断り、後者は気前よく快諾した。
 ……そうやって過ごす内、気づけば書き上げた日記帳は三冊を数え、半年という月日が流れていた。けれどその間、私は私のことについて書きつけている日記という姿を借りた人生の財産が徐々に、しかし確実に蓄積されていっていることに喜びを覚えるようになっていった。テオから連絡がないことについては失望していたし、毎週日曜の夜が来るたびに困惑とモヤモヤした思いに心乱していたけれど、その都度、一週分の〝財産〟がまた新たに積み重なったということに、ノートを開いてみて自分でも不思議なくらい腑に落ちる何かを見出すのだった。
 よくよく考えれば、もしかすると私が本当に欲していたものは、こういうことだったのではないだろうか。ふと思った。繊細で感受性の強いテオは、無意識にだったとしてもこのことを鋭敏に感じ取っていたのかもしれない。それゆえに彼が去って行ったということであれば、今はそれをとてもよく理解できる。
 でも、それとは別の問題として、私はまだ彼を必要としていた。いなくなってしまったから余計に取り戻したいという心理なのだろうか、いやそうではない。日記の中には、テオとの物語は思い出としてではあるが、たくさん登場している。それは他の友達全てのことについてよりも長く、細部に富んだ話で、エピソードも多い。
 こんな風に文章に起こしてみて初めて、私は自分がテオを愛していたということに気づいた。愛するという感情が、消失によってようやく実感されることもあるということも。
 きっと私は救いようもないエゴイストなのにだろう。あくまでも自分の手で、自分の文字で、彼のことを描写し、料理して味わいつくしてみなければ、彼に対する自分の感情さえ理解できないのだから。
「いつも関心の対象は、自分」
 いつかそう言ったテオの言葉が、胸に突き刺さった。

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