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【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 7

 その日、約束の時刻に私は“闇夜”と広場の端で落ち合った。イマームの大説法の日ということで、街じゅうが公休日となっていた。普段は日干し煉瓦で埋め尽くされている広場は綺麗に片付けられ、栄えある祭典にふさわしいよう、隅々まで掃除された。膨大な数のカーペットが敷かれ、街じゅうの男たちが集まっても誰ひとり欠けることなく席を取れるように、広場からはみ出して、通りの上まで占めているほどだった。
 街じゅうが、祝祭日のように何だかソワソワと落ち着かず、浮き足立っているようだった。そのせいか、邪眼の女たちの想念も今日はほとんど飛んでこなかった。
 “闇夜”は時間きっかりに、予定された場所に来てくれた。私と彼女とでは言葉が通じないので、意志疎通はもっぱらジェスチャーで行った。
 彼女のあとについて、狭い路地に入った。人目につきにくいようにということで、女将が“闇夜”のものと同じような黒装束を貸してくれていた。この計画のことを話したとき、女将は一瞬、あまり感心しないというような顔をした。ハシムさんの提案だと言うと、呆れたように天を仰いだが、しばらく考えていたあと、神妙な顔で、こんなことを言った。
「……イマームを眺め下ろすなんていうのは、尋常なことではないのだからね。物見遊山のような気持ちでは決して行かないように。そして、イマームの御姿を見ているあいだも、敬意を失わないでいると誓っておくれ。お願いだよ、いいね」
 普段は気さくで気軽な物言いしかしない女将が、このときだけはひどく真剣な表情をしていた。私は彼女のなかに深く根を下ろしている信仰心を垣間見た気がした。私は、いま女将の言ったことを肝に銘じると誓った。
 黒い装束のおかげでまったくの匿名性を得た私は、誰にも見とがめられることなく幾つもの狭い裏路地を抜けて、“闇夜”の住む建物に辿り着いた。それは彼女がいつも仕事をしているテントの反対側に位置し、広場の大通りに面していた。入り口は路地側の裏手にあったので、私たちは人の目を気にすることなく建物のなかに入ることができた。
 薄暗く、冷んやりとした小さな玄関口に入ると、すぐに各部屋へ続く上り階段があった。
 “闇夜”の部屋は、十階にあった。なるほどそこからならば、イマームの姿どころか、広場全体だって見渡せる。普段五階の自分の部屋まで上り下りするのにはもう慣れていた私だったが、その倍の階層を上るというのはなかなか骨の折れる仕事だった。
 彼女の部屋は狭く、そして質素だった。宿屋の私の部屋と同じ砂色の壁が四方を囲み、大通りに面して窓がひとつ開いていた。家具と言えば簡単なつくりの寝台があって、ほかは木製の小さなテーブルがぽつんとあり、その上に水差しとカップがあるくらいだった。それは宿屋エスメラルダの私の借り暮らしの部屋と比べてもあまりにも粗末な部屋で、彼女はそこで、まるで修道女のような慎ましい暮らしを送っているのだった。
 自室に入ると、“闇夜”は頭からすっぽりと被っていた黒い布をはずした。
 ――あの夜、遠目で見た驚くほど美しい瞳が目の前に現れた。やはり彼女だった、と確信を深めながら、私はまばたきを繰り返さざるを得なかった。なぜなら彼女は本当にまだとても若く、顔立ちにせよ姿格好にせよ、人目を引くほどの美人だったのだ。
 あの、街に着いて間もない晩、夜のなかを彷徨さまよう彼女の姿を見たときのことを、何とかして伝えたかった。あんな夜の闇に、黒一色のベタ色に包まれているにも関わらず輝いていた彼女の美しさに、生まれて初めて、どんな風に感動したかをあますところなく全部話して、こんな風に世捨て人のような生き方をしている彼女に、少しでも自尊心を取り戻させてあげたかった。
 けれど彼女に通じる言葉を持たない私のこの考えは、残念ながらここでは届くことはなかった。私の視線はただ空しく虚空を漂い、そうとは知らぬ“闇夜”は優しく笑って水差しを傾け、私と自分のためにカップに水を注いだ。
 そのころ、下の広場では、男たちが集まっていた。街の四方八方からやってきた男たちはおのおの絨毯の上に席を占め、群衆を形成し始めた。彼らは生真面目にも定刻より少し早い時間帯に大挙して押し寄せたので、広大な広場は短時間のうちに人で埋まってしまった。
 その数、優に千人は越えていただろうか。
 初めのころ、つまり彼らが集まり始めたばかりのころ、広場はまだ和気合い合いとした和やかな雰囲気に包まれていた。場内全体がざわめきに満ち、近所同士や親戚なのか、互いに挨拶を交わし、ハグしたり談笑したりする場面が繰り広げられた。――ところが予定されているイマームの説法の時刻が近づいてくるにつれ、徐々に演壇のほうを見据え、厳粛な様子でイマームの登場を待つ姿勢を見せる人が現れ始めた。それまでは立っている人、座っている人、先に占めた席から移動してまた戻ってくる人などいて、比較的自由で緩い雰囲気だったのだが、そういった人々が出始めると、その空気は一変した。男たちは次々に直立不動の姿勢を取り始め、殊勝らしい様子で首をうなだれ胸の前で両手を組んだ。それはまるで、空気中を何かが次々に伝染していくような勢いで全体に広がっていった。十階の窓から、“闇夜”と並んで身を潜めながら覗いている私には、動が静へ、混沌が整然へと裏返っていく、まるでオセロゲームを眺めているようだった。……千人を越える男たちの織り成すそれは、しかしそんな言葉で表現し切れるものではなかった。彼らの自らの核に抱く信仰が、そして“イマーム”と呼ばれる人物への熱狂的と言ってもいいほどの敬愛が、この日のこの広場のすべてを制御していたのだった。
 私はふと、すぐ横で同じように床に座り込み、窓にちょこんと指を乗せてなるべく外から頭が見えないようにして広場を覗いている“闇夜”のほうを見た。彼女はこの光景を、どんな気持ちで見ているのだろう、と思った。すると同じように彼女も私のほうを見た。その目には好奇心のような、素直な興奮の色が浮かんでいた。――私はこんなにも生き生きと輝く人間の目を見たことがないように思った。そして、この輝きをひた隠しにして生きなければならない彼女を、改めてひどく気の毒に感じたのだった。
 広場では興奮が高まっていた。イマームが演壇に現れるのをいまかいまかと待ちびている男たちがそれぞれ祈りの言葉を唱え始めたので、会場には再びざわめきが広がっていた。イマームの到着は少し遅れているらしく、定刻になっても人々はその姿を見ることができなかった。それである一角から祈りの声が起こったわけだが、それは人々のあいだに次々と伝わり、さざ波のように広がっていった。
 会場一体が、荘厳な空気に包まれた。まるでこの遅延のために、よりいっそうイマームを迎えるお膳立てが整ったかのようだった。
 ――そのときだった。
 演壇の向こう側から、ひとりの人物が歩み出た。その人は、上背のある体を白い丈の長い衣装で包み、やはり手首まで届く長い裾からほの見える手に小さな書を携えていた。私たちの位置ほどの遠くから見てもハッと目を引くくらい立派な顎鬚と口髭をたくわえ、頭には衣装と同じ生地で出来た短い円筒形の帽子のようなものを被っていた。イマームの登場に気づくと、祈りの声は一斉に止まり、会場は水を打ったように静まり返った。
 イマームは、マイクの置かれてある演台の上にその小さな書を置くと、その上に両手を乗せて、ひとしきり会場を睥睨へいげいした。
 
 とてつもない威厳だった。
 
 イマームの大きなひとつがいのまなこが広場全体を見渡すあいだ、人々はただ圧倒され、最大限の畏怖を示した。そして、やれイマームと目が合うなんてことになったら大変だ、とでも言わんばかりに、いっそう深く首をうなだれ、両腕を固く組んだ。
 ――あまりにも会場の空気が緊張していたため、とうとうイマームがその一声を発して大説法の開始を宣言したとき、ところどころから安堵の溜め息が漏れたほどだった。
 大説法が始まった。
 会場には、イマームの貫録のある、よく通る声のみが響いていた。マイクを使ってはいるが、あまりマイクに口を近づけて話さなかったので、それはほぼ地声であることが想像できた。広場を埋め尽くした群衆は、誰ひとり例外なく、この大説法に聞き入っていた。皆それぞれが、立ったまま、全身全霊を捧げて、イマームの発する一言一句に集中しているようだった。言葉を解さない私は、イマームの声の独特の上下する旋律や、ときおりリズミカルに弾けるように発される言葉の響きを興味深く聞きながら、生まれて初めて見るこの光景に圧倒され続けていた。実際その場に臨んでみると、女将の戒めていた、物見遊山のような気分など湧いてくるどころではなかった。
 ――人々の集中の度合いがあまりにも深かったためか、広場を埋め尽くすおびただしい数の人間の頭の列から、ときおりエネルギーのようなものが白い光の波となって演壇のほうに向かって渡っていくのが見えるような気がした。
 ――目の錯覚かしら――?
 微細な図柄を長い時間見続けているとそのうちのある部分が動いて見えたりすることがあるが、そのようなものかと思った。けれど、目をこすったり少し休めたりしたあと、改めて見てみても、それはやはり同じように見出された。これだけの人々の純粋な想念が、集合的に、イマームの立っている演壇のほうへ向けて流れているのだった。そしてそれは、そこに辿り着くと、受け手であるイマームその人の一身に集められ、不思議な明るい輝きをその体の周囲にもたらしていた。
 
 ――これがイマームの威容だった――。
 
 数十分続いた説法が途切れ、しばらくの沈黙のあと、イマームが唱句を唱え始めた。その音色、抑揚、リズム……。それらは感動的に美しく、そして威厳に満ち満ちていた。異邦人であり、唱句の意味を一言も理解できない私でさえも、心が震えて止まないほどだった。
 ――すると突然、千人の男たちが全員、一斉に膝をついた。そのときに起こった音を、私は言葉で表現できないかもしれない。千人がいちどきに同じ動作をする音、無言でかしこまって、敬虔な目的を持って、正確に……。沈黙のうちの騒々しさ、とでも言ったらいいのだろうか、そこにあったのは千人分の衣擦れの音と、彼らが神を敬う無言の“声”。私はひたすら圧倒され、息もつけなかった。
 そのとき、その空間は、強力な意識の集合体で満たされていたのだった。
 ……広場の光景に夢中になっていた私だったが、ふと横を見ると、“闇夜”もまた、外の男たちと同じように膝まづいていた。イマームの唱える唱句に従って彼女はいま、足元に敷いた礼拝用の小さなマットの上に額をつけているところだった。見ると、広場の男たちも、同じ姿勢になっていた。
 彼女と外の千人の男たちは、イマームの声に従い、見事なまでに揃った仕草で起き上がり、天を仰いで同じ唱句を唱えた。
 私は初めて目の当たりにする彼らの祈りの儀式的な動作を、不思議な気持ちで眺めていた。そして、彼らのように一心に信じられるものがあるということを、羨ましいとさえ思った。
 
 ひと通りの説法が終わり、広場は再び静寂に包まれた。
 すると、イマームはいま一度口を開き、とっておきの朗報を群衆に向けて披露した。と、言うのも、彼の口調は先程までとは打って変わり、広場にいる人々に祝福の花びらを投げ与えるような朗らかなものになったので、私にもそれが何か良いニュースだということがわかったのである。
 最初、広場には小さなどよめきが起こり、すぐに波紋のように広がった。一瞬のちにはそれは歓声へと変わり、手に手を取り合って、狂喜乱舞する者まで現れた。
 そしてそのときだった。いままで属していた世界の透明な膜を打ち破る、まるで閃光の炸裂のような出来事が起こったのは……。事実、私の物語は、この瞬間から初めて息吹を得て生き始めると言っても過言ではないほど、その出来事の前と後とでは状況はガラリと変わってしまった。
「ああ、何てことでしょう」
 小さな声の呟きが、私の耳をとらえた。そしてそれこそが、あの閃光をもたらすものだった。
 いかなる偶然か……。気が動転したからか……。彼女はいま、私が宿屋エスメラルダの女将と交わしているあの言葉で、自らの驚きを表した。
「……失礼……、あなたは……」
 私は尋ねた。すると彼女のほうも驚いて、私にその言葉を話せるのかと聞いたのだ。
 目が覚めるような瞬間だった――。確かにいままで、この言葉を使って彼女と会話する機会がなかった。彼女の前でハシムさんとは私の故郷の言葉で話していたし、エスメラルダの女将と会話するときに彼女が同席することはなかった。私は、彼女がここの言葉しか話せないと思い込んでいたのだ。
 この機会が、私と彼女が直接話すことができる共通の言語を持っているということを教えてくれた。
 驚きとともに、軽い眩暈めまいがして、言葉では説明の難しい、胸を打つような不思議な感動が押し寄せた。……そして、途方もない規模で私たちを包み、人智の及ばぬ場所から私たちを操ったり導いたりしながら見守っている、何か大きな存在があるということを信じられるような気がした。
 ――広場での大説法はつつがなく終わり、群衆は散り始めていた。年に一度、街じゅうが祝賀のように沸くこの特別な催事を終えて、人々はほっとし、心和んでいるようだった。それに加えて、ついさっきイマームの口から発せられ、人々のあいだに熱狂的な興奮を巻き起こした事柄は、広場から解散していく人々の上になおも明るい光を投げかけていた。そこらここらで、悦びの声が上がったり、興奮気味に話し合う声が聞こえた。
「彼らはなぜあんなに喜んでいるのですか?」
 私は“闇夜”に尋ねた。見れば、彼女の顔もまた、喜びを得て輝いていた。彼女がいったん喜びを露わにすると、いままで隠れていた生命いのちの輝きが解き放たれ、月の恩寵のように、しとやかではあるが芯の強そうな、彼女本来の美しさがほとばしった。
「イマームが巡礼ハッジに行かれると発表されたのです」
 巡礼ハッジ
 彼らにとって、一生のうち一度は行うことが義務づけられているという、聖地への訪問。それを成し遂げれば、帰還したときにはその人は皆から尊敬される。いかなる罪も、清められるという。この街のイマームは、自らの修養や諸々の公務のために、巡礼に行く機会をずっと失っていた。それが今年、とうとう自分のなかで準備ができたと感じ、また、年間行事のスケジュール調整も上手くいって、ようやく出立の目途がついた。それを先程の大説法の最後に、自らの悦びとともに公にしたのだった。そして、人々があれほどまでに狂喜したのにはさらなる理由があった。イマームの大巡礼、ということで、礼拝所の主催で何人かの同行者を募集する、という発表があったのだ。礼拝所の主催なので、もちろん旅費や宿泊費は無料、いくらか手出しが出るとしてもごく少額で済むのだった。前年度の喜捨の額に応じて、携行人数は何人になるかまだわからないが、おそらく二十人か三十人といったところだろう、ということだった。
「皆とても喜んでいましたね」
 私は言った。“闇夜”は、ええ、と言いつつ目を伏せた。その顔には、喜びと同時に、戸惑いのような諦めのような複雑な表情が表れていた。
 彼女は話してくれた。
 ――このままこの街で生涯を終えるのだと思って過ごしてきた。イマームが巡礼に行かれるとは、思ってもみなかったことだ。すべての罪が浄化される巡礼に、彼女としても、もちろん行きたい。けれど、誰しも行きたい気持ちは同じだ。自分はもう何年も、無理を言ってこの街に住まわせてもらっている身……。もし自分が巡礼に行くとすれば、街の人たちの反感を買いはしまいか……、いや、それ以前に、自分が巡礼に行きたいなどと意思表示すること自体が図々しいのではないかと思ってしまう……。“闇夜”はそう言うのだった。
 私は、「個人的な意見だけれど」と前置きして、彼女を説得しようとした。いまのこのような生き方を変えることができるのならば、何としてでも巡礼に行くべきではないか? そうすれば彼女は自らの“罪”を洗い清め、晴れて戻ってきた暁には、街じゅうを昼間も自由に歩くことができるようになるし、何かもっと収入のいい仕事にだって就けるかもしれない。それに、もし彼女が望むならば、故郷に帰ることだってできるかもしれない……。
 だが彼女はうつむいて、首を横に振るだけだった。
「あなたは何もわかっていないのです……。私には後ろ盾もないし……。もしもう一度彼らの憎しみを買うようなことになってしまったら……私はここを追い出されるかもしれません。そうなればもう私にはどこにも行く場所はないのです」
 そう言った彼女の顔からは、さっき鮮やかに浮かんでいた弾けるような輝きは消え失せていた。月の恩寵はいまではすっかりなりを潜め、そこには元通りの、暗く打ちひしがれ幸福を諦めた女の表情が表れた。
「何を言っているんです! しっかりして下さい!」
 そのとき、思いもかけず私は大声で叫んでいた。そして、ずっと言いたくて仕方なかったことを、とうとう彼女の前で言った。
「……この街に到着した日の夜、あなた方が運んで下さった宿屋の窓から、真夜中に彷徨い歩くあなたを見かけたのです。あのとき、あなたは絶望しているように見えて、とても不安定な様子だったけれど、月明かりに照らされて、あなたが顔を上げたとき……、何て美しい人なのだろうと思ったんです。……お願いだから、幸せに生きることを諦めないで。まだこんなに若くて綺麗なんですよ。やってみましょうよ、やれるだけのことを! 意思表明をして、巡礼に行って、正々堂々と生きられるようになりましょうよ。もし手を尽くしても駄目で、彼らがあなたをこの街から追い出すというんだったら、私があなたを自分の国に連れていってあげたっていい!」
 “闇夜”は非常に驚いた様子で、なかば硬直していた。私は私で、突然出て来た思い切った言葉に自分でも驚いていた。けれどそのとき話した言葉はすべて、私から出た真実だった。
 すると、“闇夜”の瞳は徐々に潤み始めた。彼女は近づいてきて私を掻き抱き、声を上げて泣いた。
「ここに来てから、こんな優しいことを言ってくれたのは、あなたが初めてだ……」
 と、彼女は言った。

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