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【長編小説】 初夏の追想 4

 ――私がその土地を初めて訪れたのは、三十五歳を迎える年のことだった。当時ひどい胃潰瘍を患っていた私は、入退院を繰り返しながら何とか会社勤めを続けていたが、あるときとうとう職場復帰を諦めざるを得ない状況になって、退職届を出したばかりだった。
 失業保険の手続きを終えたあとで、私は、以前に人から勧められていた転地療法のことについて考え始めた。実家に戻ったときにその話を母親にすると、母は何かに思い当たったような顔をして、こう言った。
「それだったら、お祖父さんのところを訪ねてみない?」
 母方の祖父は、もうずいぶん長いこと独り暮らしをしていた。祖母が亡くなったのが十五年前だから、それ以来、ずっと独り身を通しているということになる。平生へいぜいあまり付き合いがなかったので意識したことがなかったが、いざ考えてみるとそれはなかなかの年月だった。
「お祖父さんは、でも、他人を寄せつけないって話じゃなかった?」
 私は言った。祖父は画家で、その世界では有名な人だということだったが、親戚一同からは偏屈なところがあると思われ敬遠されていた。親族の集まりに顔を出すこともなく、山奥に引き籠ってずっとひとりで絵を描いているということだった。
「そうなんだけどね。お父さんもそろそろ結構な歳だし……。今年こそ、様子を見に行ってみようと思っていたところなのよ。電話をかけても、ああとかうんとかしか言わない人でしょう? お前は孫だもの、他人じゃないわ。いい機会じゃない? 様子見がてら、行ってみてちょうだいよ」
 母は気楽な口調でそう言った。おそらく八十のよわいは越えていると思われる祖父だが、病気や怪我をしたという話は、ついぞ聞いたことがなかった。体の丈夫な人なのだ。母にしても本気で心配しているわけでもなさそうな雰囲気がうかがえたが、歳が歳なだけに、いつどうなるかはわからない。身内の者が様子を見にいくべき時期ではある。
 転地療法についてぼんやりと考えていたとはいえ、どこへ行ったらいいか見当もつかないでいた私は、いっそどこかまったく知らない土地へ行って、しばらくのあいだ何もせず何も考えずに過ごすのもいいかもしれない……と思い始めていた。そうすると、これは渡りに船と言えないこともない状況だった。
 そういったわけで、私は祖父の住むO県の山奥へ、荷物を抱えて出向くことになった。
 
 
 
 ――それは、山奥に幾つも点在する別荘の中のひとつだった。
 私は注意深く車を運転して、数えきれないほどの急なカーブを曲がりながら、一時間ほどもその山道を上っていった。
 やがて、その別荘の持ち主の名前が書かれてある大振りの表札が目に入った。その、アール・ヌーヴォー風の鉄枠で囲まれた洒落た装飾の表札には、私の祖父の……つまり私の苗字でもあるくすのきと、もう一つ、犬塚いぬづかという苗字があった。祖父はもうだいぶ前から、犬塚家の所有する別荘の敷地内に建つ離れ、、を借りて暮らしているということだった。
 私は車を私道に乗り入れた。十メートルほど砂利道の上を進むと、右手にまず一軒目の別荘が見えてきた。
 これが犬塚という人の別荘か……。
 それは、大きな洋館風の屋敷だった。イギリスの片田舎にでも建っていそうな、ひなびた雰囲気のある石造りの重厚な建物だ。薄緑色のペンキできれいに塗られた木の柵で囲まれた前庭が、瀟洒しょうしゃな雰囲気をかもし出していた。
 だが、この日本の山奥の風景の中にも、その建物は違和感なく溶け込んでいた。前庭を突っ切るように、低い植え込みに縁取られたアプローチがあって、玄関のポーチには、低い三段くらいの木の階段とひさしがついており、この別荘に滞在する家族の幸せそうな声がいまにも聞こえてきそうだった。
 私は微笑みながら、屋敷の前を通った。祖父の住む建物は、砂利道をもう少し進んだはす、、向かいにあった。犬塚家の別荘のような切妻屋根はなく、長方体のモダン・アートのような白い建物で、家族向けというよりは、明らかに単身者向けのもののように見えた。画家がアトリエとして使うにはちょうどおあつらえ向きといった感じだったが、八十を越える祖父がそのような家に暮らしているというのは、ちょっと意外なことだった。
 私は静かに建物の横の駐車スペースに車を乗り入れた。隣には、祖父が普段乗っているらしい白い軽自動車が停めてあった。
 玄関の呼び鈴を鳴らすと、ゆっくりと祖父が出てきた。
「おう、来たか」
 祖父は何ごとでもないように、飄々ひょうひょうと私を出迎えた。まるで、宅配便の配達が届いたかのように、日常生活のごく一部ででもあるかのように。
 祖父と会ったことがあるのは、いつのことだったか……。まるで記憶にない。母が言うには、赤ん坊のころに一度私を祖父に見せて、それっきりだということだった。だから私はこの日、ものごころついてから初めて祖父と顔を合わせたことになる。
 祖父の一番の関心事は、取りも直さず絵を描くことだった。西洋画家として大成していた祖父は、数多くの作品を世に送り出していた。八十余年のこれまでの生涯の中で祖父の描いた絵は、東京や大阪の有名美術館に展示され、また美術収集家のあいだで高額で取引されているとのことだった。私はあまり詳しく知らないが、いくつもの賞を取ったそうである。そういった情報は全部母から入ったものだったが、祖父本人はそういうことはどこ吹く風といった様子で、ただひたすらいまも現役で目の前に立てたキャンバスに注意を向けているようだった。
 それでも祖父は、前もって二階に私のための部屋を用意してくれていた。一階には台所とトイレ、洗面所とバスルームがあって、二十畳ほどある広いリビングがそのほとんどを占めていた。祖父はそのリビングの窓際の一画をアトリエとして使っていて、カーテンで仕切った奥のスペースに簡易ベッドを置き、そこで寝起きしていた。二階にはトイレと寝室用の部屋が二つ、あとは納戸があるくらいのものだった。そのうちの一室を私は割り当てられ、もう一つの部屋は祖父の画材置場になっていた。
 部屋に荷物を運び込むと、隣の部屋からの絵の具や油の匂いがした。空気がこもっていたので、私はさっき車で乗り入れて来た道に面したサッシのほうへ行って、大きく開け広げた。
 その外には、広いバルコニーがあった。一階の総面積の三分の一くらいのスペースを取ってあり、そのために二階には部屋が二つしかないのだった。南仏を思わせる白い漆喰塗りの壁が午後の光を映して、柔らかな表情を見せていた。そこには布張りの快適なデッキ・チェアがひとつとラタン製のテーブルと椅子のセットが置かれていたが、それでもまだダンスでも踊れそうなくらい広々とした余白があるのだった。手摺りの向こうへ目を転じると、彼方に雄大な山々の峰が連なるのが見渡せた。

 ――その日から、私と祖父の奇妙な同居生活が始まったわけだが、祖父は噂に違わぬ偏屈者で、芸術家気質丸出しとでも言うのか、いったん自分の創作の世界に入り込んでしまうと、ほかの何ものにもそれを邪魔させなかった。それ以外のときには、日常的な会話もするし、私のために胃に優しい食事を作ってくれることもあった。絵のことを考えていないときは、長い時間、向かい合って対話をすることもあった。何にしても不思議な人だった。芸術以外のことにはまったく関心を持たず、ときには着るものにも頓着しないくらいだった。かと言って、ひとたび話をするとなるととても面白く、どんな話題でも例外なく盛り上がるのだった。祖父は娘である私の母のことから、一族のこと、この土地に移って知り合いになった人のことなど、何でも話して聞かせてくれた。……けれどある一定の線を越えてはならないというような緊張感を、私はいつも感じていた。それは祖父が自分の芸術を謹厳に守ろうとするがために周囲に張り巡らしているバリアのようにも感じられた。 
 ともかく、私にとって彼のようにミステリアスな存在はない。そしてそれはいまだに変わることはない。

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