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【長編小説】 初夏の追想 7

 ――どのくらいそうしていただろうか。多分、一分間ぐらい、いや、わからない――なぜなら、その時間は私には永遠にも感じられたから――。
 ある瞬間、ふと突然、彼の目に、わずかな動きが起こった。それは動きと言っていいのかどうかわからないほどの微妙な変化であったが、まるでカメラのレンズの焦点が合ったときのような、くっきりとした変化であった。
 彼の目の中に、ようやく、人間として私にも通ずるようなものを見出すことができたのである。
 それは、まったく不思議な出来事であった。
 そして、さらに驚いたことには、その瞬間から、彼の風貌は、ガラリと変わってしまったのである。
 目に生気が宿ったと思った途端に、それまでくすんだように蒼白だった彼の顔色は、透明なツヤのある果物の果皮のような色に変わったように見えた。そうすると、瞳の輝きはいまや本物となり、意志ある人間の、それもとても強い意志を秘めた人間の、魅力的な眼差しがこちらに投げかけられていたのだった。
 私は、ハッと我に返った。
 彼は、私に向かって微笑んで、軽く会釈して見せたのである。
 思いもよらぬ彼の行動に、私は混乱し、一瞬どう対処すれば良いものかわからなかったが、それでも何とか分別ある大人としての自分を取り戻して、会釈を返した。
 少年は、それを見届けるとすぐ立ち上がり、そのまま門のほうへ歩いて行って、アプローチの小道に姿を消してしまった。そしてもう一度もこちらを振り返らなかった。
 それは、あっという間の出来事だった。気づくと早朝の〝引っ越し〟もいつの間にか終わっていたようで、ほかの二人の姿も消え、彼らの乗って来た車が道端に残されているだけだった。
 
 
 ――閑散とした静けさの中で、私はひとり、夢の続きを見ているような気分だった。あれはいったい何だったのだろう。
 溜息、ともつかぬ深呼吸をして、たったいま起きた出来事を、もう一度冷静に思い返してみた。
 今朝私は思いがけず早く起きて、何の気なしに、バルコニーに出ていた。すると、向かいの別荘に、人がやって来た。見ていると、あの三人の親子連れが荷物を運び込んでいたのだった。
 そして、私はあの少年を見た。彼は、もうひとりに比べれば各段に痩せていて、柔弱な体つきをしていた。もうひとりのほうは彼よりもかなり年長らしく、背の高い、体格のいい青年だった。彼らは本当に兄弟なのだろうか、と、そんな疑問が浮かぶほど、彼らの容貌はかけ離れていた。
 そして、彼の取った一連の行動……。それらはひとつひとつ私の目に焼き付いており、特にあの、互いに視線を合わせた瞬間の印象は、強烈に私の心をとらえていた。
 彼の私に与えた印象には、何か気がかりなものがあった。思い出せそうで思い出せない、けれどとても大切なもののような気がする、何か……。しかしそれが何かということは、とうとうわからなかった。
 もどかしいような気持ちを抱えたまま、私は部屋へ戻った。そして、階下に降りて、コーヒーを入れることにした。
 
 
 祖父はまだ眠っているようだった。こんな非常識なほど早い時間に起きてきてコーヒーを入れるのははばかられるような気がしたが、制作で疲れ切って眠るときの祖父は、果てしなく深く眠るので、少しの物音やコーヒーを沸かす匂い程度のことで起きてしまうことはない。これまでに幾度かの経験を経てそのことをわかっていたので、今朝は大丈夫だろうと踏んだ。夕べ彼はかなり遅くまで、油絵の具と格闘していたのだった。
 コポ、コポと、サイフォンの中でセピア色の液体が移動するのを眺めながら、私は着替えをした。
 コーヒーとトーストだけの簡単な朝食を終えるころになっても、あの家族の奇妙な印象は消えなかった。
 だいたい、彼らは、何だってこんな早い時刻にやって来たのだろう。私だって今日は特別早く起きたのだし、あのときはちょうど日が昇ったばかりだったではないか。ちょっと家族連れで別荘にやって来るには不似合いに過ぎる時間帯だ……。
 そして、あの少年の、尋常でない様子……。
 再び、ゾクリとするようなあの鮮烈な印象が甦った。その印象には、二つの側面があった。ひとつは、最初の、あの恐ろしいほどの、彼の無表情な顔……。それは本当に、亡霊のように、私の心を一瞬にして射すくめてしまったのだった。
 そして、もうひとつの、彼が微笑み、会釈をよこしたときの顔……。こちらは、誤解を恐れずに言うならば、私を魅了するほどのものであった。確かにそのとき、死んでいるように見えていた彼の瞳は瑞々みずみずしい輝きに黒く濡れ、頬の辺りは、橙色の明るい光を放つかのように見えた。そしてはからずも、私は少年のそのときの様子に、心を打たれてしまったのであった。
 そのことは、時間が経てば経つほど、私の中ではっきりしてきた。そして、前者のそれとの違いのあまりの激しさのゆえに、自分の心がこんなにも動揺しているのだということも、わかってきた。
 しかし、あの、彼の印象について浮き上がった、どうにも説明しようのない、心に引っかかっているもの……。それだけは、どうしても明確にはできなかった。


 翌日のことである。私は、スーツケースをしまおうと、二階の階段の突き当たりにある納戸の戸を開けた。それは二畳ほどの広さの物置で、木材の板を簡単に渡しただけの作りつけの三段の棚と、その横に背の高い荷物を入れられるようなスペースがもうけてあった。そこにはすでに祖父の色々な持ち物が詰め込まれていた。例によって画材のたぐいがほとんどで、使い古しの画架イーゼルが立てかけてあったし、絵の具やフィキサチーフの缶、ペンチングオイルの在庫などが置かれてあったりしたが、古い美術関連の本も何冊かあった。私は画架イーゼルをずらして、何とか自分のスーツケースをそのスペースに押し込んだ。
 祖父の蔵書の背表紙を興味深く眺めていると、ふと私は、そのあいだに本以外のものを発見した。それは無造作に本と本のあいだに挟まれていたが、間違いなく絵の側面で、白いキャンバス地の端には暗緑色の背景の色がうかがえた。私は注意深く本をどけて、それを取り出してみた。
 それは、小さな油絵の肖像画だった。B5版サイズほどの大きさで、若い婦人の上半身を描いたものだった。陶器のように白い肌、うっすらとピンク色を呈した頬に、瑞々しい紅色をたたえた口元。艶やかな黒髪をまっすぐに胸の辺りまで垂らしたその女性は、特徴的な細く小さな目をしていた。彼女は毅然とした微笑みを浮かべて真っ直ぐにこちらを見ていた。それは完成された作品で、右下には祖父のサインがほどこしてある。その表情は、あまりにも生々しく、まるで生きた人間が息づきながらこちらを見つめているようだった。
「お祖父さん、この女の人は誰?」
 美しい絵を見つけて嬉しくなった私は、その絵を祖父のアトリエまで持って行って訪ねた。祖父はそれを見ると、驚いたように目をいた。そして制作中の手を止め、私からその絵を受け取ると、じっと黙って眺めていた。
「これは、向かいの別荘の奥さんだよ」
 祖父は言った。
 ――祖父と彼女は、古い友人だった。彼女が学生のころ絵のモデルをしていたときに知り合い、以来ずっと仲の良い友人だということだった。祖父が西洋画家として名を上げたあと、画廊を経営していた彼女と再会し、静かな環境で制作することを望んでいた祖父に彼女が提案して、この離れを安値で貸してくれることになったのだという。肖像画は、ここに移り住んだ年に、このアトリエで彼女を祖父が描いたものだった。
「美しい人だね。ということは、昨日向かいの別荘に着いた家族の中にその人がいたことになるな」
「昨日着いたのか?」
 祖父が問うた。そうだと私が言うと、祖父はポカンとした表情を浮かべて、無言のまま目の前の空間を見つめていた。
「遠くだったから、顔はよく見てないけどね。挨拶に行かなくていいかな」
 私が言うと、必要ない、と祖父は言った。
「家賃は毎月きちんと払っている。問題はない」
 そして、背中を向けて制作に戻っていってしまった。

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