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国立西洋美術館と空想エッセイ《2》 2024年3月【3】

前回に引き続き、美術鑑賞から始まる空想のお話。

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ドメニコ・プリーゴ「アレクサンドリアの聖カタリナを装う婦人の肖像」

絵の表面がテカテカしていて綺麗だ。板に描かれているらしい。これまで観てきた絵はキャンバス、つまり布だった。1520年代に制作されたという。500年前に描かれた絵がこんなに綺麗な状態であることが私には信じられない。

日本では戦国時代にあたる。1521年に武田信玄が生まれた。1523年には毛利元就が26歳(数え年)で家督を継いだ。信長・秀吉・家康が生まれるのは1530~40年代。

プリーゴ(1492-1527)はフィレンツェの画家。この絵もそこで描かれたのだろう。500年前のフィレンツェの空気が感じられる。街の音、人々の話し声が聞こえてくる。

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クロード・ロラン「踊るサテュロスとニンフのいる風景」

裸の男女が水辺で楽しそうに遊んでいる。こういうところに混じりたいかといえば、答えは「否」。男性は私ひとりで残りは女性、あるいは私と女性のふたりだけの世界。そのいずれかでなければ嫌だ。

「男女」と書いたが、厳密には神々と精霊だ。解説文にはこうある。

本作の場面は、木陰に花環をつけた牧羊神パンが座り、彼の前で半人半獣のサテュロスやニンフたちが音楽に合わせて踊る、祝祭的な光景です。


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ピエトロ・ロンギ「不謹慎な殿方」

私はこんなにわかりやすくのぞきはしない。バレないようにやるだろう。しかし私は不器用で、そんなことはできそうにない。見たい気持ちをグッとこらえて立ち去るべきなのだろう。人生は悲しい。人生はやせ我慢。

絵の詳細を知りたくてググってみたら、面白い解説を見かけた。

では、この若い女性はなにをしているのだろうか。こうして観者に謎かけをすることで、自然と視線は女性のあらわな胸元に向けられることになる。つまり、観者も、画中の紳士と同じ視線を辿ってしまうのである。 

『国立西洋美術館年報 』No.33、18頁


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ジョゼフ・ヴェルネ「夏の夕べ、イタリア風景」

裸の女神たちが水浴をしている。これまたこっそりのぞきたいものだが、それによって鹿にされた挙げ句、犬に食い殺された男がいる。狩人アクタイオンだ。女神アルテミスの裸を見てしまい、彼女の怒りを買った(ギリシャ神話)。

しかし上記の絵はそれとは無関係。そもそも神話ですらないようだ。1773年制作というが、この時代に現実の女性の裸を描いて良かったのだろうか。90年後の1863年、マネが「草上の昼食」でそれを描いて非難された。

マネは裸婦がメインだったが、ヴェルネは風景がメイン。そういう理由で咎められなかったのだろうか。詳しいことは知らない。

美術館の解説によれば、これは実際のイタリアの風景ではなく、想像上のものだそうだ(英文に「an imaginary one」とある)。当然だろう。若い女性がこんなに堂々と水浴びしていたら、男性たちが大勢のぞきに来てしまう。


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シャルル=ルネ・ド・ポール・ド・サン・マルソー「マリー・バシュキルツェフの胸像」

意志の強そうな顔立ちだ。そして肩から胸にかけての美しいこと。なで回したくなる。西洋のドレスというものは、どうしてこうも上半身の露出が多いのか。

西洋美術は女性の裸だらけだ。服を着ていると思ったら肩から胸があらわ。どれもこれもが私の性欲を刺激してくる。

西洋美術の鑑賞は、己の性欲と向き合う行と言える。それが楽しくてやめられないのだが。ブーシェやカバネルやアングルの裸婦を夜な夜な模写して興奮していた十代の頃から変わらない。

なお、マリー・バシュキルツェフ(1858-1884)はウクライナの芸術家。25歳で結核のため亡くなった。

今回はここまで。まだ語りたい作品が8つもある。次回に続く。

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著者は1985年生まれの男性。 不登校、社会不適応、人付き合いが苦手。 内向型人間。HSP。エニアグラムタイプ4。 宗教・哲学(生き方)…

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