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おばあちゃんが、わたしを普通の女の子にしてくれた

ずっと、未来の自分に期待をして生きてきた。数秒先の、数分先の、数時間先の、今ではない何処かを生きている自分に何かを委ねてしまっている。例え今の自分が見るに耐えないくらいダメダメでも、先を流れる時間を泳ぐわたしは、今と比べたら幾分幸せであるはずだと、なぜか信じている。どこにもそう思う気持ちの拠り所なんてないはずなのに、あと少し先を生きるわたしは、今よりももっと出来上がっている気がするのだ。

今の自分が、何者なのかずっとわからない。いったい自分は誰で、何になれていて、これから何になるべきなのか、ずっと。ずっと、わからなかった。わからないからこそ、わからない未来を生きる自分に、過剰に期待をしてしまう。
何をしたって、わたしはずっと不完全だ。誰に認められても、何かが足りない。埋められないパズルのピースが、あとひとつが、どこにあるのかわからない。
受験も就職も夢も、一個ずつ欲しいものを手にしているはずなのに、本当の意味で自分が完成したという感覚を覚えたことがない。その答えを探すために、わたしは手探りで見えない未来を歩んでいくのだとわかってはいて、その旅のどこかで見つかるかもしれないと、希望を持ててはいるのに。

この世界ではきっと、人はいつまでも「何者」になりきれない。わたしは、そんなことを考えてしまう。

何かになりたくて、何かになれなくて、みんな何かに苦しめられている。
目に見えない「何か」という厄介なやつに、いつも追われている。追いかけても手が届かないのに、逃げればこれでもかというほどに、あいつは追いかけてくる。

何かになりたいと願いつつ。
何かになれない自分から、ずっと逃げたかった。
何者にもなれない自分が、異常だとさえ思えた。
こんなに何かに追われているわたしはきっと頭がおかしいんだと思うこともあった。何かを手にしても、何を成し遂げても、まだやれる、まだ上がある、もっとって。ハングリー精神を通り越して、それは飢えと例えたほうがしっくりくるものであった。

もっともっとって、埋まらない何かを探し続けるなんて狂っている。自己肯定感なんて、何年経ったって養えない。
足りないものがあったほうが、いいものが作れることにも気付いてしまった。拭えない暗い過去が芸術になることも、もうとっくにわかってる。それを乗り越えたときに見えた景色の広さと、それでも乗り越えられない何かにわたしの全てがあることも。そこに求めている「何者」が潜んでいることも、わかっている。

もしも、もがいた先になにもなかったら。目指す先になにもなかったら。満足した自分になれたとき、世間の誰からも肯定されなかったとしたら。
その孤独の中で、たった一人、世界で自分だけが自分を分かっていたとしても。
わたしは、何者かになれたと自信を持って言えるのだろうか。 そんな孤独に、耐えられるのだろうか。何者はどこにあるの、何者にはいつなれるの。

普通に暮らして、普通に友達と遊んで、普通に仕事して、普通に愛し合って、普通に。
普通でいいはずなのに、普通でいては何者にもなれない。平均以上でないと、社会で上手に生きていけない。何かひとつ突出していないと、個性だと認めてもらえない。それを上手に表現できなければ、持ち合わせている自分を出せなければ、そんなのは自分がそこにいないのと一緒だ。苦しい。苦しい。

そんなふうに張り詰めて張り詰めて、糸が切れそうになっていた2年前の夏。noteをはじめるちょっと前の話。書き方も、自分を救う方法も、何もかもがわからなかった、社会人一年目の夏。

ある日ふと帰った田舎で、おばあちゃんがこう言った。

「さくちゃんは普通の女の子よ。
どこにでもいる、今時の可愛い女の子だもんね」

あの瞬間。
はじめて、生きた心地がした。おばあちゃんの部屋で、ボロボロ泣いたのを覚えている。カッコ悪いから、いつも泣かないようにしていたのに、なにも我慢できずに泣いた記憶がある。
そのほかにもたくさん言葉をもらったというのに、わたしの中にずっと、その言葉だけがやけに印象に残っている。

その一年後。おばあちゃんは、眠るように亡くなった。その瞬間にわたしはいなかったのだけれど、亡くなる前日、不思議なことがたくさん起きた。全て、愛がもたらした奇跡だと思っている。
その日、カレンさんという大好きな先輩と電話をしているとき、プププという音がして、何度も電話が切れた。
試写会で見た映画の中で、おばあちゃんが死んだ。
なんとなく嫌な予感がして、眠れなかった。

おばあちゃんが亡くなったのは、3時19分。
わたしの誕生日は、3月19日だ。

何者でもないわたしのことを、おばあちゃんはいとも簡単に「普通の女の子」と言った。
普通の、女の子と、言った。
その言葉にどうしてだかわたしは、何もかもが許されたように、全てがこれで良かったと思えるほどの安心を覚えたのだ。焦ってもがいて何者かになろうとし、疲れ果てて荒んでいくわたしを。
おばあちゃんは、どこにでもいる普通の女の子だといった。なんの迷いもなく。

何かの押し付け合いと、誰かとの比較。
普通であることを怖がり、でも本当は普通である幸せをどこかでわかっているわたしたち。
苦しみながらも何かを求める荒波の中で、無意識にこの世界のあらゆる普通を潰していないだろうか。
理想を追い求めていたはずが、いつのまにか自分が追われる側になってしまい、そこにあるはずの自分や、誰かにとっての普通を無視していないだろうか。
何者かになろうともがくその強さがあるのならば。
何者でもない自分を認めることだって、きっとできるはずだ。その手のひらにあるものがこぼれ落ちる前に、自分を抱きしめてあげたっていいのだと、
わたしはおばあちゃんに教わった。

わたしが思う普通は。
誰かの普通ではきっとない。
わたしが狂っていると思うわたしは。
誰かにとっては凡人でしかない。
わたしが欲しいと思うものは。
誰かにとってはゴミかもしれない。

わたしが欲しかった、今どこにもないと思っていた何者は。
誰かが見ていた、おばあちゃんが見ていた、
今のわたしだった。

おばあちゃん。
わたしは、生きています。ここにいます。

確かに今、ここで息をしています。わたしは、わたし以外の何者でもありません。わたしは、わたし以上でも以下でもないです。これから何になっても、わたしはわたしにしかならないのだと思えます。

そこから何が見えますか。わたしが見えていますか。今一緒にいる家族が見えていますか。時々、空を見上げるとおばあちゃんを思い出して、切なくなります。

そうそう。
あんなに喧嘩ばかりだったわたしたち家族も、今ではお互い辛い時に寄り添えるようにまでなりました。連絡なんて取り合わなかったのに、家族のライングループまでできたんだよ。
この前、どうしても悲しいことがあって、見たことのないものを見れば救われる気がして、遠く北の地に住むお父さんにいきなり会いに行ったの。ちゃんと迎えにきてくれて、ご馳走を用意してくれて、わたしを迎え入れてくれました。突然飛行機に乗ってここまできたわたしに何か聞きたそうだったのに、何も聞かないでいてくれました。さすが、あなたの息子さんです。

何を伝えようとして、何を伝えられないまま、おばあちゃんが眠りについたのか、私は一生わからないの。
こんなにはやくお別れが来るのなら、もっと会いにいけばよかったって、後悔だらけです。もっとメールもすればよかった。ひとつひとつ、伝えてくれることを噛み締めておけば良かったと、別れに対していまだにわたしは直視できないことばかりです。本当は後悔だらけです。会えなくなる人がいることが、怖くて仕方がないよ。

もうしばらく会えなくなってしまったけれど、おばあちゃんが本当に何を伝えたかったのか、いつかそちらへいくときまで答え合わせができないけれど。
おばあちゃんの言葉のおかげで、わたしがいます。おばあちゃんのおかげで、変われた部分がたくさんあります。
人が伝えようとしてることに耳を傾けて、わかろうとするのを辞めないって決めました。自分の今の心を無視して無理やり生きていくのも、もう二度としないと誓ったの。最近少しだけ後ろめたいことをしてしまって、ちょっと荒んでしまったの……。怒ってほしくて仕方ないよ。それでも、どんなときでも前を向こうと思えるの。
sakuはちょっとだけ、強くなれたよ。今のわたし、どう思う?

何者にもなれずに、何かを追って何かに追われ、それでも明日に期待し続けるわたしを。
もう、二度と責めない。自分に鞭をうちつづけ、この社会に蔓延し続ける「何者」ってやつに執着するのではなく、いま見える自分を抱きしめてあげる強さを、思い出せてよかったと思う。
何気ない日常に静かに、でも確かに燃えるわたしの大切な「普通」。わたしは、どこにでもいる普通の女の子です。普通でいいのです。

あの日、おばあちゃんがわたしを普通の女の子にしてくれた。
あの日、わたしがわたしである理由を知った。これでいいのだと、今いる自分がもうすでに何者になれているのだと、わたしはもうわかってる。同じように苦しむ人も何もわたしと変わらず、普通の人間で普通を生きていることを、わたしは忘れずに生きていこうと思うのです。

この記事をやっと書き終えて、また救われた。
ずっと書きたかったけれど、書けなかったらって思うと怖くて、書けなかった。書けた。書けたんだな。

時に稀有で、時に情けなく、時に愛がなくなるこの世界で。限りある命を精一杯生きて、わたしを救い出してくれたおばあちゃん。
溺れてたわたしを、おばあちゃんが助けてくれた。ありがとう。ありがとうって、いつか伝えられるその日まで。

わたしは、今日も世界の片隅で。
普通の女の子として、生きていきます。
何者になろうとも、何者になれなくとも、
わたしは、わたしとして生きていきます。
おばあちゃんへ。

#エッセイ #君のことばに救われた #家族

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