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幼少期のことと昨日の話

小学校に行きたくなかった。
今思えば、ADHDの検査結果で処理速度が最低ギリギリだった私だから当然といえば当然だけれど、言葉に詰まる場面ばかりで無口になり、友達がいなかった。
それだけのせいかは分からない。

一年のとき、担任が私が絵の具で描いた絵に何度も修正を求めてきて、それをだましだましにしていたらクレヨンで思い切り塗りつぶされた。
そのとき私はなんて言ったかもう覚えていないけれど、多分、何でも先生の言うとおりじゃないとだめなんですかとか、そういう感じだったんだろう。
見当はつくわりに何も覚えていないのは多分、直後に担任が「タラコの発言に傷つけられた子は手をあげて」と、子供に意見されたことにブチギレて職権を乱用したからだ。

振り返ったら当然、全員が手を挙げていた。私と会話なんてしたことない人まで。
でも当たり前だと思う。先生の機嫌を、生徒は損ねてはいけない。親になんて報告されるんだろう、それを受けて親はどれほど怒るんだろう。私も当時それがこわくて、親になんか言えなかった。最近になって実はと打ち明けたところ、「何だそれ、いじめだ」「知ってたら殴りこみに行った」と、かつての担任に怒ってくれていたけれど。

ともかく学校は、そうではない場合のほうが多いのかもしれないけれど、教室という場所は。教師の独壇場であり、彼彼女こそ神だった。歯向かうなんてもってのほか、言った通りに毎日楽しそうに過ごさなければならないし、言いつけにそむいている人を告げ口するのは正義。
あの空間は狂っていたと思う。今でも小学校という場所が嫌いだ。


上でも少し触れたけれど、私は親から怒られるのが怖かった。それほど手を焼かせた子供だったのだ。

すぐ姉のものをなくしては怒られ、いたずらをしては怒られ、誤解で怒られている姉を目の前にしても怖くて「本当は自分だ」と名乗り出なかった、ずるい子供だった。

でも、だって、いいじゃん。姉には母親がいてくれるから。
そんな風に思ったこともあった。

親は私が泣くと「泣けば許されると思うな」「本当に悪いと思っているのか、何が悪かったか分かってるのか」「泣いてないでなんとか言え」と言った。まだ親も若くて、怒るというエネルギーのあった時代の話だ。子供は怒られてなんぼ、というような時代の。

でも姉は違った。
なにかがあって泣くと必ず母親がフォローした。ベッドで泣く姉の背をさすり、話を聞いていた。それを遠巻きに眺めて、「いいなぁ」、と思うだけで、言動を改めなかったような子供だ。

子供のうちから信用できないと言い訳もさせてもらえない、こういう人間だから、今もなんとなく、言い訳というものが下手だ。経験がない。経緯を説明したところで、あなたは気が済むまで怒鳴るんでしょう。そう思いがちだし、実際感情的な人はそうだ。自分の怒りを収めたくて大声を出して威嚇するだけ。冷静に原因を知ろうとしてくれる人は初めから理由を聞いてくれる、会話になる。人の発言を遮ったり、威圧されて勝手に出るだけの涙に余計怒ったりしない。
なんだかこう書くと毒親だったみたいに思われそうだけど、単に私がそれほど悪いことばかり、怒らせてばかりの懲りない子供だったというだけだ。怒りたくて怒っていたわけじゃない、どうにかこの子をまともに育てられないか、どうして伝わらないのか、親にもそういう葛藤はあったろう。言葉はいつも正論だった。


でも大きな足音が嫌いだ。

どすどす歩いて部屋に怒鳴り込んでくる父親。昨日、そうだった。

パソコンの回線の調子が悪い、どうなっている。そんなこと私に言われたところでどうにもできない。
ただでさえ昨日は気圧の急降下がひどく鬱状態で寝込んでいたのに、知っていただろうにそういうことをされて、参った。廊下やリビングでも騒いで物を叩く音がする。昔のテレビじゃないんだからルーターの調子はそんなことで良くはならないだろうに、また父親はどすどす階段を上り早足で部屋に向かうと、わざと大きな音を立ててドアを閉めた。

動悸がした。


今でも怒りっぽい人、感情的な人が苦手だ。
いくら正当な怒りでも、もうすこし落ち着いていられないのだろうか。周りには呆れやいらだち、恐怖くらいしか与えていないのに、どうして暴れないと気がすまないのか理解できない。
回線の調子が悪くてなにもかもままならないいらだちはよく分かる。分かるのに、どうしても感情に流されてしまいやすすぎるところだけは、20とすこし付き合ってもいまだ理解できずにいる。

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