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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.20 第四章 風の章、再び

「うわの空ね」
 隣に座っていたマリが、少しふくれてぽそっとつぶやく。つばの広い帽子をかぶり、ほおづえをついている。セレブ然としている。不機嫌な表情が、またそれらしい。完成されているなぁ、と思う。
「ごめん」
 他の女のことを考えていたのがバレたかな。まさか、と思うけど、一応あやまる。
「じゃ、キスして」
 とても小さい声で、マリが言った。半分、冗談のような、でも何かを確かめたいという思いが芯にあるような、低い声だった。
見透かされている。首の後ろがかすかに冷えた。けれど、それを打ち消すかのように、カケルはマリにくちびるを重ねた。冷たくて、薄いくちびる。マリとキスをすると、いつもそう感じる。自分も、何かを確かめたかったのかもしれない。カケルは、いつもよりずっと長く、マリとキスをした。沙耶のことを考えながら、一人の夜を思いながら。マリのくちびるが、うっすらと開いて、キスが微熱を帯び始めたとき、カケルは、マリの手に重ねていた手に、少し力を込めた。その途端、波がすっと引くように、マリは、くちびるを離した。マリの目は、潤んで泣いているようだった。目を伏せてしまったマリの肩を、カケルはそっと抱き寄せた。長いこと、何も話さないで波の音だけ聞いていた。
 これからも、きっとこうしてマリと会うだろう。そして、何度もキスをするだろう。自分たちの心に密かにうそをつきながら。

 久しぶりに沙耶から携帯に連絡があったのは、新学期が始まってしばらく経ってからだった。同じ学部なので、何度か顔は合わせていた。でも、裕介とも別れ、周ともカケルとも関係を持った沙耶は、さすがに今まで通りとはいかないのだろう、誰からも距離をとっていた。
 夏を越えて、少し彼女の雰囲気も変わっていることに気づいた。前のように、高い声ではしゃぐことが少なく、ずっと落ち着いて見えた。何が彼女をそうさせたのだろう。
 彼女から連絡が入ったのは、そんなことを思っていた矢先だった。
「ふふ、何か久しぶり」
 そう言って笑う沙耶は、一見、前と同じようにも思えた。二人は、いつもの焼き鳥屋へ行き、ほどよく酔って、ゆるやかに交わった。
 秋の虫が鳴いている。空気が冴え渡るような夜だった。
「もう、やめたほうがいいのかな」
 帰り支度をのろのろする手を止めて、沙耶が言った。裸のまま、炭酸水を飲んでいたカケルの手が止まった。カケルは、飲み物をテーブルに置き、寝転んでいる沙耶の隣に座った。
「好きな人でも、できた?」
 つとめて静かに言った。
「……分かんない」
 沙耶は、顔を上げない。そして続けた。
「分かんないんだけど」
「気になるんだ。その人のこと」
 沙耶は、言葉では肯定も否定もしない。ただ、白いさなぎのように、ごろんとシーツにくるまって顔を向こうへ向けた。そして言った。
「自分をもっと大事にしろ、って。その人が言ったの」
 カケルは、黙って白いさなぎの沙耶を見つめる。
「どういうことだろう。それって」
 それから、こちらに顔を向けないまま、ふいに呼んだ。
「カケル」
 ころころと、かすかに揺れながら彼女は口を開いた。
「カケルの本当に好きな人って、だれ?」
 答えられなかった。炭酸水が、のどを刺して冷たく体の芯に下りていく。
 虫の声だけが、いつまでも窓の外の草むらから聞こえてくる。結局、うやむやのまま、その日は別れた。
 本当に好きな人って、だれ?
 沙耶の声が、ほこりと共に空を舞う。
 うわの空ね。
 マリの声が、風と共に吹き込んでカケルの周りでつむじを巻く。二人の言葉は、からまり合って、ぽっかりと魂の抜けた自分の体の上で浮遊する。
「痛いなぁ」
 カケルは、ひとりつぶやきながら、ごろんと横になった。額に乗せた自分の腕さえ重い。

 気がつくと、のどが異常に痛かった。体がぞくぞくする。しまった。そのまま裸で眠ってしまったらしい。熱を計ると、三十九度近くある。
 バイト先にだけ、かろうじて連絡を入れた。その他は、誰とも連絡をとらないまま、二日が過ぎた。三日目で、やっと熱は三十七度台後半になった。
 チャイムが鳴ったのは、三日目も暮れる頃だった。そっと扉を開けると、美晴が立っていた。
「……どうしたんだ」
「先輩こそ、どうしたんですか? 部活にも来ないで。誰にも連絡しないで」
 扉のすき間から、細い腕が差し込まれた。手に脚本が握られている。
「忘れ物です」
 気がつかなかった。
「ついでに、おすそわけです」
 美晴はスーパーの袋をつき出した。中にごろごろと土付きのじゃがいもが入っている。
「このままもらっても」
 そう言いつつ、カケルは扉を大きく開け、じゃがいもの袋を受け取った。
「料理、しないんですか? カレーとか」
「ほぼ、しない」
 美晴は、少し考えてから言った。
「じゃがバタとかでも、おいしいですよ。じゃがいもレンジでチンして、バター乗せるだけ」
 そして、にっこり笑った。何か言おうとして咳き込んだ。
「大丈夫ですか? まだ熱が?」
「ああ」
「……何か、食べてます?」
 背の低い美晴は、ちょっとつま先立ちをして、部屋の様子やキッチンにちらっと目をやった。
「いや、あんまり」
 彼女は、黙ってカケルの顔を見つめている。まるで、子どもが知らない大人の人をじっと見つめるようなまなざしだ。
「何か、作りましょうか」
「え?」
 美晴からあまりに自然に出て来た言葉に、カケルはふいをつかれた。
「二十分後に、また来ます」
 美晴は、するりと部屋から出ていった。まるで妖精のように。

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