見出し画像

【父の手を求めて① 】―私の男性トラウマと統合まで―

今日から5回に分けて、私の個人的な男性に関するトラウマと、その治癒までの話を書いていきたいと思います。

誰もが、各々の治癒の道を歩んでいて、私自身もそれと同じく、果てしなく自分の治癒を深め、統合していく道の途上にあります。
そして、最近ある一つの着地点にたどり着いた私のこの個人的な物語が、これを必要とする誰かの目に留まれば嬉しいと思い、綴ります。
それが、あなたの中の何かを解きほぐし、癒していくきっかけになるなら。そして、あなたの中にある何かに光が当てられたなら。

あなたの中にあるそれは、【必ず】癒せるものだと、
私は疑いなく、信じています。
すべての傷は、いつか光に帰していくときの歓びを体験したいがために負ってきたものだと思うから。

長い話になりますが、もしこれがあなたの目に留まったら、ぜひ読んでみてくださいね。



子どものころ、父と触れ合った記憶がほとんどない。
ましてや抱っこされた記憶など。

父は、戦後すぐの生まれの、不器用な愛情表現の下手な人で、
見た目も恐く、大柄の熊のようだった。家族を大切にしてくれていたが、何分可愛がり方を知らなかった。
母によると、赤ん坊の私も抱っこしたことがほとんどなかったらしい。
固く無骨な手で赤ん坊に触れて、泣かれたらと思うと、本人も触れるのが恐かったのかもしれない。

私は小さい頃から10代の半ばにかけて、父のことがずっと恐く、嫌いだったので、父親とスキンシップなんてした記憶がなかった。
今振り返ると申し訳ないが、
いつもお酒とタバコの匂いがする父と、夕食を食べるのもあまり好きではなかった。
私は割と遅くにできた子どもだったので、白髪が多く実年齢よりも老けて見える父親を周りから見られるのが恥ずかしいとさえ思っていた。

父は2人兄弟の兄で、小学生の頃はガキ大将でジャイアンのよう、しょっちゅう他の子をいじめ、祖母が頭を下げて近所に謝り続ける日々だったらしい。しかし長男で責任感は強かった。誠実で、仁義に固く、筋の通った人だった。

優しい人だったが、何分見た目がヤクザのようで(それは全く彼のせいではないのだが)、お見合いには30回連続で臨み断られ続けたらしい。祖母と共に挫けそうな思いであっただろうと思う。
最後の最後に私の母に出逢ってようやく縁が結ばれた。祖母はかなり胸を撫でおろしたと思う。

女性の接し方を知らないその不器用な男性には、結婚後すぐに2人の娘が生まれた。数年経って、最後にもう一人子どもが生まれた。息子を望む気持ちもおそらくあったが、結局最後に生まれた子どもも女の子だった。それが私だった。

父はそこにいた、だが父の存在を娘の私はあまり心地よく思わないまま、育っていった。父、母、祖母、姉2人、そして私。
6人家族の内5人は女で、父との接触は少なく、ある意味、女ばかりの「男性不在」の家だった。

そんな父との関係が変転していくのは、彼の事業がうまくいかなくなり、
やや強硬的だった彼が自分の弱さを認め、会社と家を手放すことになった時期だった。
当時私は14歳、通っていた私立の女子中学は2年目で不登校になり、混沌の内に塞いでいた時期だった。
父の在り方が一変し、住まいが一変し、そして、私も一挙に変わっていく、一家を全体から俯瞰して観ると幸運でしかない流れだった。

男性としては恐らく大きな傷にも恥にもなり得る、仕事と家を手放すという人生の大岐路を、
彼はある種清々しく選択し、手放していった。そして私は、弱さを隠さず自由になった彼、弱さを認めて自分にも周りにもぐっと優しくなった彼を、その頃から好きになり、以後心の距離は縮まり、彼への信頼が増していった。

結局、私は相当なファザコンだったのだと、気づいたのは父が亡くなった後、私が31を過ぎてからだった。
父が私をどれほど想ってくれていたか、どんな思いで育ててくれていたかを、
小さな我が身で少しずつ受け取れるようになってきた。
どれほど私に与え続けてくれていたか、そして今も与え続けているかの自覚は年々深まり、彼に深く深く感謝するようになった。

ただ、父が生きていた間、やはり確実に、私に為さなかったことがある。
「赤ん坊の小さい私を、抱く」ということだ。

それが、私の身体と人生にとってある種決定的な「欠けたピース」だったことに気付いたのは、
父の他界数年後、バリ島で水中ボディワークのセッションを受けた時だった。

(続き)


父と撮った彼の生前最後の写真。孫のこはるちゃんを抱けるようになった父と。

読んでくださってありがとうございます。もしお気持ちが動いたら、サポートいただけると嬉しいです😊 いただいたサポートは、よりよい活動をしていくための学びに使わせていただきます。