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いつか見た風景 89

「嵐の夜は心ゆくまで」


 嵐で無人島に不時着した。幸い軽い脳しんとうで済んだのは運がいい。耳鳴りと左の首の付け根に違和感が残っているけど大した事じゃない。夜が明ける前に何としても状況を把握してここから抜け出す方法を探っておかないと。うっかり寝落ちでもしたら大事だ。何しろ目が覚めると、私はいつもリビングのソファ辺りに転がり落ちているからさ。

               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス



「もう一人の私を呼び出す儀式の準備だよ」


「君はラッキーだよ」とアーサー・エヴァンスと名乗る口髭を生やした英国人風の宇宙人は言った。彼の話を鵜呑みにすると、エヴァンスはその昔クノッソス宮殿の発掘によってクレタ島で育まれたミノア文明の驚くべき先進性を次々に明らかにしていったそうなんだ。4000年以上前のギリシア先史文明とも呼ばれる華麗な古代の神秘の断片に、それも未だ発見に至っていない古代の叡智の尻尾辺りに私もこれから遭遇するかも知れないなと、エヴァンスがガタガタと音を立てて震える円盤の操縦桿を握りながら呟いていた。

 地中海東部のバルカン半島と小アジアの間に広がるエーゲ海の夜空を、私たちは月明かりを頼りに飛んでいた。最近親しくなったエヴァンスと名乗る宇宙人が運転する小型の円盤はきっと旧式のビンテージものだと思われた。速度を上げたり方向を変えたりする時には必ず妙な異音が機体のあちこちから聞こえている。

 クレタ島からキクラデス諸島に向かっていた時だった。突然嵐に襲われ優雅な深夜の古代文明を巡る旅が一変したのだ。「関係者以外の立ち入り禁止区域だけど仕方あるまい、話せば分かってくれるだろうから」と独り言のようにエヴァンスが呟き、無線で誰かと交信している。私の全く知らない言葉を使って。


「古代の神秘や叡智に触れる旅」


 無人島に不時着すると、不思議な事に嵐はどこかに消えていた。私は着陸時の衝撃で左の首筋に軽い痛みを覚えていたが、エヴァンスの後に続いて島の中心部へとゆっくりと歩みを進めていた。きっと無人島とはいえコンビニの一つくらいはあるのだろう。深い青色の、青銅のような粘土質の地面が続いていた。目を凝らすとクノッソスの線文字らしき模様が彫られている。辺りには木々は一本も見当たらず、その代わりに朱色の巨大な列柱が何本もそびえていた。それぞれは3メートルくらいの高さがあるだろうか。その中の一つの柱が突然エレベーターのように上昇し始めた。

 朱色の柱が15メートルは伸びただろうか。スライド式の格子のドアが現れてエレベーターは止まった。中には大きな壺を携えた女神官の様な出立ちの娘が3人、それぞれ顔を横向きに凛とした不敵な表情で立っていた。私が彼女たちの美しさに見惚れていると、エヴァンスは得意げに言った。「クレタのパリジェンヌ達だよ。ワタシがそう名付けたら当時瞬く間に噂が広がって、学者だけでなく世界中の人々をあった言う間に虜にしたんだよ、彼女たちは」と嬉しそうに顔を綻ばせて解説を始めた。クノッソス宮殿の西翼の上の階に彼女たちが描かれた美しい壁画を最初に発見したのはワタシなんだとエヴァンスは言った。それから彼女たちとの長い長い付き合いが始まったんだと。

「ちなみに彼女たちはマギの三姉妹だよ。マギの意味ってのはさ魔術師とか魔法使いみたいな感じかな。このマギは古代ギリシャは勿論だけど、ラテン語やペルシャ語にもあってね、そう、それこそ古代ペルシャのゾロアスター教の司祭はマギって呼ばれてたくらいなんだ。現在の英語のマジックの語源みたいな奴だよ」

 クレタのマギの三姉妹も、エヴァンスに続いて横顔のまま私に微笑んでいる。それから「アガーピ、アイオーン、レーテー、レーテー」と呪いのような言葉を発しながら、それぞれ抱えていた壺を私の前の地面に置いた。人差し指を口元に当て、まるで何かを制するような仕草を見せて、再び「レーテー、レーテー」と微笑んで朱色の柱に乗り込んだ。

 静かに下降する太古のクレタのエレベーター。彼女たちは顔が見えなくなる瞬間にまた「アガーピ、アイオーン、メーテー、メーテー」と繰り返した。意味も分からず私が呆気に取られていると、エヴァンスが頭を掻きながら私に向かってこう言った。「3種の忘却の水だよ、たぶんね。レーテーって言うのは、つまり古代ギリシア語で忘却を意味するんだけどね、そうか、いやぁまいったね…」

 アガーピは「愛」の意味だそうだ。キリスト教における愛、アガペーの語源なんだそうだよ。つまり無償の愛って奴だよ。それからアイオーンは「永遠」だと思うってエヴァンスが言った。古代ギリシャでは時間とか期間とか、それから歴史とか色々と意味が複雑だったけど、かのプラトンが「永遠」だよって決定打を放ってからは、何だかそんな意味に落ち着いているらしいんだ。

「アガーピ、アイオーン、メーテー、メーテー」って、つまり「永遠の愛なんか忘れて忘れて」って事なのかな? 謎は深まるばかりだけど、彼女たちは一体どこに潜って行ったのかね。この下に地下帝国でも存在してるって事?


「君たちがクレタの噂の3人娘なの?」


 壺と一緒に彼女たちが置いていった粘土版の注意書きを読みながら、壺は右から「トイレ用」「飲料用」「陶酔用」だとエヴァンスが言った。彼はその陶酔用は特に飲み過ぎないよう気をつけろとつけ加え、ソレを飲み過ぎる前はワタシもちゃんと立派な人間だったと言った。トロイアの遺跡を発掘したシュリーマンと並ぶほどのって。だけど今のエヴァンスは、20世紀初頭にクレタ島から出土した印章の文字を解読するために遺跡の発掘調査に果敢に乗り出したあのエヴァンスと、今ここにワタシとして存在しているエヴァンスとが同じエヴァンスかどうかも正直自信が持てないほど記憶が時々あやふやになるそうなんだよ。地中から出現したクノッソス宮殿の巨大で複雑な構造に一瞬で虜になった時から、気がつくとクレタの迷宮がそのままエヴァンスの迷宮と底の底の方で繋がっちゃだたんだってさ。

 この先に古代の水洗トイレがあるからと、エヴァンスが私を連れて行く。今は水が出ないから用を足したらコレで洗い流せって事なんだよ。アンタは夜中に何回も行くだろうからちょっと多めに入ってるはずだよ。それからさ、飲料用はワインでもビールでも、たぶんコーヒーとかにも変化するんじゃないかな。飲みたいと思った瞬間に好みの液体にね。まあ、とにかく好きなの飲んで日頃のストレスは忘れてしまえって事だよ。最後の奴はさ、コレは、そう、何て説明したらいいかな。エヴァンスが少し困った様な笑顔で私の方を向いた。

「まあ、そうだな、こう考えてくれたらいいよ。陶酔用の水はさ、つまりアレなんだよ、次元の違う世界へのご招待って感じかな。マギはあらゆる植物に精通した薬剤師でもあるからね。用法用途はキチンと守らないといけないけど、そうだな、まあ、マイルを貯めるようにさ、回を重ねるとさ、そのうちさっきの彼女たちがいる地下のVIP 専用のラウンジにも自由に出入り出来るようになるからさ」と言ってエヴァンスが戯けた仕草で笑いながら私の左の首を軽く揉んでいる。

「気に入られたんだな彼女たちに、だけどちょっとだけ覚悟を決めないといけない事があるんだ…」とエヴァンスが続けた。「ソレを飲んだらさ、ワタシのようになっちゃうからさ、この歳で宇宙人になってからの不老不死ってのもなかなかキツイものがあるからね」と私の顔を覗き込みながらそう言った。そうか、そうなんだ、私もエヴァンスのようになるのかと想像した。いつの間にか気がつくと宇宙人になって、どこかの国の見知らぬ老人と仲良くなって、それから深夜の得体の知れない不思議散策飛行に出かける事になるのかと。


「残りの人生ちょっとだけアグレッシブに生きようって思ってるんだよ」


 エヴァンスから手渡された粘土版には陶酔水の用法用途、つまり使用上の注意がクノッソスの線文字でびっしりと書き込まれていた。私は端から端までじっくりと眺め、せめて若い女性を、例えば私の大のお気に入りの金曜日のヘルパーさんを旅に誘える飲み方が書いてありそうな箇所を懸命に探していた。彼女への永遠の愛が忘却の淵に立たされちゃう前にね。

 私は三つ目の壺の水を口に含みながら「メーテー、メーテー」と繰り返し呪文の言葉を声に出して夜空を眺めていた。嵐はとっくに過ぎ去り、満天の星空が広がったエーゲ海の無人島で、私はふと思った。アレレ? もしかしたらメーテーって日本語の「酩酊」の語源だったりするのかな。



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