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いつか見た風景 87

「忘却ホテルの思い出に」


 バッカシ家の長男ジョーダンは7代続く家業を継いだ。ワニの紋章の入った古いホテルと裏庭の菜園。菜園には、かのお釈迦様の弟子の周利槃特(シュリハンドク)の墓から生えたと伝わる茗荷が今でも見事に栽培されていた。

               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


「お前さんは決して後ろを振り返らないってホントなの?」


 ワニは決して後ろを振り返らない。前進あるのみで前しか見ないから。だからその事に肖り、例えばイギリス王立科学研究所のどこぞの壁にはワニのでっかいレリーフが飾られてたりするんだ。つまり科学の進歩に後ろを振り向く必要はないってね。もっともコレはバッカシ家のホテルの紋章のパクリだってジョーダンが言ってたよ。商売も後ろを向いたらお終いなんだそうだから。

 ジョーダンから電話があったのは3日前、何でもインバウンドが戻って奴のホテルは大忙しなんだってさ。コロナ禍で人々が家にいる時間が長くなったお陰で二つの大事な事と向き合った結果だなってジョーダンは言った。それは家の中と自分の中に色々と散乱するモノだって。家にとって本当に必要なモノといらないモノ、それから自分にとっても。必要な記憶といらない記憶。いつもよりちょっとばかり向き合う時間が増えたからってね。だからいらない記憶をココに皆んなが捨てに来るんだよって。

 インド北部の小さな村の小さなホテル。お釈迦様の弟子のシュリハンドクの墓からさほど遠くない場所に、大昔からひっそりと宿屋を営んでいたバッカシ家が世間の注目を集めるのはこれて何度目だろうか。食べると物忘れが促進されシンプルな精神になれるって曰く付きの茗荷を使った創作料理は昔から一部熱狂的なファンがいたけどね。ちょっと前にもホテル名物「茗荷づくし」はミニマリストやビーガンのアイコンにでもなりそうな気配があったんだって。

 そうそう、ビートルズがインドにやって来て大騒ぎになった60年代後半から70年代にかけては、ホテルの周りに世界中のヒッピーたちが集まって大麻やマリファナと一緒に特製茗荷タバコに身を委ねていたんだって。丁度イギリス留学から戻っていたジョーダンの父親の発案だよ。閃いたんだね、コレでホテルを盛り上げようって。忘我の境地の若者たちの姿が何枚もの写真に収まってホテルのロビーの片隅に今でも飾られているからさ。その後も何度か小さなブームの兆しはあったけど、気づくとあっという間に茗荷は元の薬味のポジションに成り下がったって、ジョーダンが口惜しそうに言ってたよ。


「悟りを開くのは大変なんだって?」


 そもそもの話なんだけど、物忘れの激しいお釈迦様の弟子のシュリハンドクは自分の名前すら時々忘れる男だったそうなんだ。兄の摩訶槃特(マカハンドク)は優秀で早くからお釈迦様の覚えも高く、深く仏教に帰依したと言うから、兄の姿を見るにつけシュリハンドクは自己嫌悪に苛まれ、自暴自棄になっていったんだよ。それでさ、ある日見かねたお釈迦様が彼の名前「シュリハンドク」をのぼりに筆で書き、それを背負って托鉢に出るように命じたんだ。お釈迦様直筆ののぼりを背負ったシュリハンドクはあった言う間に有名になって、珍しい直筆のぼりに町の皆んながご利益を期待したのか、シュリハンドクはお布施をいっぱい貰えるようになったんだって。

 またある日には、シュリハンドクにホウキを持たせ「ゴミを拾おう、アカを除こう」と唱えて掃除をしなさいと命じたそうだよ。するとシュリハンドクは雨の日も嵐の日も、暑い日も寒い日も懸命に掃除を続けたんだ。やがてシュリハンドクを見下す者はいなくなり、自らの心のゴミやアカまでも全て除き「阿羅漢」と呼ばれる聖者の位にまで上り詰めたんだってさ。死後に彼の墓から見慣れない草が生えて来たのは有名な話しなんだけど、シュリハンドクが自分の名前を荷なって長い間努力を続け悟りを開いた事からその草は「茗荷」って呼ばれるようになったんだって。

 お釈迦様はシュリハンドクに向かって言ったそうだよ。「自分が愚かであると気づいている人は知恵のある人、愚かさに気づかないのが本当の愚か者だ」ってね。だから私はジョーダンに聞いたんだ。アンタの親父はこの話知ってて茗荷タバコをヒッピーに売りつけてたのかって。後ろめたさなんかないよ、そもそもウチは仏教徒じゃないからね。それに後ろは振り向かない家系だからさってジョーダンが笑っている。

 愚かなのは知ってるから大丈夫だって。そんな事より、ホテルをリニューアルしようと思っているんだってジョーダンが電話の向こうで言っている。「忘却ホテルだよ。世界は今、問題山積で想像以上に先行き不透明じゃないか、見方によっては胸糞悪い嫌な時代だからさ、だから嫌な事は忘れて、自分にとって大事な何かを見つめ直そうってコンセプトなんだ。勿論〈茗荷づくし〉料理をもっともっと全面に押し出してさ…」とジョーダンが力説している。だから私にも手伝ってくれと言っている。


「お部屋に思い出をお忘れですよ」


 何をどう手伝うのよってジョーダンに聞いたらさ、私にホテルの客室係になって欲しいって言うじゃないか。それもチーフ格としてね。お客様の捨てた記憶を掃除して、それからちゃんと仕分けして欲しいって。つまりさ、後からお客が後悔しないように、大事な記憶はホテルで保管しておきたいんだって。

 どうやら私はその道の専門家だってジョーダンは認識しているらしいんだよ。だからさ、しばらくの間はホウキを持って「思い出を拾おう、悲しみは除こう」って唱えながらホテルの客室を回ろうかなって思ってるんだ。




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