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いつか見た風景 98

「深夜の冷蔵庫で起こった事の全て」


 かつて私は問うていた。「私はいつから今の私だったのか?」と「私はいつまで私なのか?」の2つの疑問を私自身に。その疑問に終止符が打たれる瞬間は突然やって来た。昨日の深夜、近所のコンビニで新人の若いイケメン店員が2人の女性客から「いつからバイトしてるの?」「何時に終わるのよ?」と執拗に絡まれていたのだ。店員は嫌な顔一つせず、クールに含みを持たせてこう答え、私にそっと啓示を与えた。「ちょっと前から」「そのうちきっとね」と。

               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス



「えっ、ちょっと待った方がいいって、何で?」


「老いは弱虫には向かない」と言ったのはハリウッドの大女優ベティ・デイビスだったか。その意味で私は十分弱虫ではない。日に一度は駅前の混沌宇宙に足を踏み入れて加速度的に進みつつある監視社会に警鐘を鳴らし、月面並みに重力が減少した我が家のリビングでも何とかドーパミンの分泌を正常値に保とうと日々奮闘している。現実社会に参加するために、脳内のフワフワから自分自身を見失わないために。

 コンビニで買ったナポリタンを電子レンジで温めて食べようとした時だった。三賢人と思しきマッシュルーム顔の男たちが突如現れて、私の老いを祝福してからこう言った。「食べるのは少し待った方がいい」「夜中にナポリタンはどうかと思うけど、そこは君の選択を尊重しよう」「ただ、神様が君と直接話しがしたいとおっしゃられてな」「こうして我々がアポを取りに来たという訳さ」「5分後に冷蔵庫の前でどうかな?」

 フォークを片手に持ったまま私は冷蔵庫の前に立っていた。しばらくして扉が開き、柔らかな光に包まれた冷蔵庫の内部が現れると、私は息を呑んだ。そこはまるで洒落たレストランの客を迎えるウェイティングラウンジといった風情に満ちていた。勿論私の勝手な想像だが。それにしてもいつものハムやチーズに惣菜や漬物、普段使いのバターや調味料、それにお気に入り糖質ゼロのビールや安物のワインたちは一体どこに消えたんだと目を凝らしていると、奥の方から神様と思しき初老の男がお出ましになった。男はニシンの昆布巻きに使う光沢のある黒茶のノーズガード付きの昆布帽を深々と被って私を手招きしていた。


「冷蔵庫内に潜む私の進化の控え室」


「さあ、遠慮はいらないよ、何しろココは君自身の進化の控えの間だからね」と意味深な物言いで神様は私を冷蔵庫へと招き入れた。みるみる私は控えの間に丁度いいサイズに縮小し、あっという間に神様とは対面に、少しばかり湿気のある乳白色のソファに座っていた。あれっ?と思い、辺りに目を凝らしながらも再度座り心地を確認する。指でちょっと表面の肌触りを確かめてみると、それは豆腐で出来ていた。スーパーで売ってる馴染みのお一人様用一回使い切りサイズの。きっと目の前に座っている神様の関係者の中の腕に覚えのある何者かが容器から勝手に出してソファ型にカットしたに違いない。ついでに目の前のテーブルの表面にはヒエログリフ風の記号の模様を施している。

 テーブルは買ったばかりのバターに違いなかった。空のワイングラスが置かれているのは、きっとこれから神様と乾杯の儀式でも執り行うのだろう。グラスとテーブルの接地面の摩擦係数が気になったが、案外しっかりとグリップされている状態を見て、私は妙に感心した。壁には生のししゃもを蛇の紋章のように縁取ったレリーフがあった。中央は細かくカットされた梅干しにたくあん、それから野菜室から勝手に取り出したオクラを複雑な幾何学模様のように並べ立て、まるで蜘蛛の巣のような円形の曼荼羅に仕立てられていた。青黄赤の三色が私の冷蔵庫の内部を圧倒的な統一感で支配している。部屋の中央にはおそらく何かの神話の一場面と思しき2人の戦士の戦いの立体像が鎮座していた。それは生ハムとブルーチーズの華麗なオブジェだった。

「現実世界を把握するために脳は存在している訳ではないんだよ」と神様が言った。むしろ実際には脳は現実を把握してはいないと強調している。そんな事は先刻承知しているよと、私は素っ気なく返した。たまたまさっきドナルド・ホフマンのTED の講演映像を見ていたからね。ほら、ちょっと前に注目されていた認知心理学の博士のさ。それに今まさに目の前で起こってる事はその分野が関係してるんじゃないかって密かに思っていたからね。私の咄嗟の適応能力に感心しながらも、神様は話を続けていた。

 人は皆んなそれぞれ見たいものを見る。考えたい事を考える。ついでに見たくないものを見て、考えたくないものも考える。そうした意識の中心に脳ミソがどうやら存在している訳だから、ここでちょっとばかり注意が必要になって来るのは周知のことだねと神様が言った。コントロールだよと。大事なのはね。過ぎたるは及ばざるが如しと言い換えてもいいけど、時にはアウト・オブ・コントロールすら制御できる術を見事に身につけた達人にまで昇華したいと君は思っているんじゃないのかな。そう、謙虚さと不遜さが一体化した己の小宇宙をね。君にはどうやらその資質があるようだと知ったものだからさ、こうして直接会って一度話してみたいと思ったんだよ。

 コントロールは最も苦手な分野だよと私は神様に言った。その証拠に私はいつの間にか着せられていた神様とお揃いのジャケット(明太子ペーストをパイ生地に塗りたくり、しば漬けを十字にカットして貼り付けたような)を脱ぎ捨て自前の豹柄の着ぐるみ姿になっていた。それは冷蔵庫の中身を虎視眈々と狙う、腹を空かせたただの捕食者の姿に他ならない。

 私の神様は私自身であるべきだと心のどこかで思っている。だけどもそんな不遜を許してくれる心の広い神様はこの世に本当に存在するのだろうか。監視と見守りの違いについて私は私の神様と議論すべき時が来たと確信していた。私たちの話題は「監視社会の強度が加速度的に強まっている昨今を我々のような年寄りが無事に乗り切るために」に自然に切り替わっていた。そう、例えばスーパーの鮮魚売り場で刺身パックを何度も手に取り吟味する時の気まずさについて。


「監視社会を生き抜く方法を探ろうじゃないか」「もっと自分を解放した方がいいよ!」


 気がつくと神様の隣で食後のコーヒーを飲んでいた。ワインで乾杯はしたのだろうか? メインディッシュは何だったんだろう? ちょっと前の大事な記憶が消失していた。しかし同時に、私には一切の不安がなかった。いつもだったら消えた記憶を取り戻そうと躍起になったりもするだろうに。私の心は不思議なほど落ち着いていた。そんな私を気にする様子も微塵に見せず、神様は話しを続けていた。私は再度話の内容を探るべく、我が身をちょっとばかり神様に近づけた。

「お気に入りの理論や思想を身に纏い、世界を闊歩するのには2つの大きな理由があるんだよ」と神様が続けていた。「その世界の住人だと自分自身が認知する事と、その世界の住人たちと出来れば連帯したいから」「それは君が外出時に選んだ一枚のジャケット、図書館で選んだ一冊の本にも反映されている」そして勿論、帰りに寄ったスーパーで手にする刺身の盛り合わせにも反映されると神様は言った。そう、私と同じ切り落としの刺身パックを手にした私の隣の老人は、きっと心の中でこう呟いているはずだと。「あなたも今晩コレで晩酌ですか、それにしても微妙な値段ですよね、果たしてコレがお得なのかどうか…」

 隣り合わせた老人はきっと明太子色のジャケットを着ているかも知れないなと思った。しば漬けを十字にカットした模様入りのね。その老人が、私を見守る私の神様だったならどんなにか幸せなんだろうかと、私は冷蔵庫の前で蛇のように湾曲したししゃもを口に運びながら想像してみた。それは退屈な日常のクリシェな主旋律の繰り返しの中に優しく登場するピアニシモの懐かしいメロディーのようだった。やっぱりナポリタンはやめておこう。今夜は何だかお腹いっぱいなような気がして来たからね。




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