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いつか見た風景 93

「何でもないある夏の日の午後」


 誰にでも経験があるはずだ。少しの間でいいから誰かの人生と入れ替わってみたいって。尊敬する過去の偉人たち、お気に入りの作家や芸術家、音楽家や大道芸人だっていい。或いは何者でもない普通の人たちだって。案外近くにいる自分とは全く違う年齢や性格の人物かも知れない。きっと前から気になる存在だったはずだ。彼らのどこかに惹かれている自分がいたはずだから。

               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


「私が君に難題を持ちかけようとしてると思ってるなら、ビンゴだよ!」


 何でもない夏の日の午後には特に何でもない事を考えがちだ。何でもない事は大抵何でもないと鷹を括っているから、時にはとんでもない方向に走り出したりもする。日替わりで誰かになりすましてみようとか、なりすます事で見えて来る自分の本当の姿と向き合ってみようかとか。

 勿論無断でなりすますのだから情報漏洩には細心の注意が必要だ。そこでまず私は、なりすます時間と場所の厳格なルールを決めた。平日の午後1時から夕方6時頃まで、場所は自宅のリビングを中心に私は誰かになりすます事にした。夏のこの時期は、外は熱くてとてもじゃないが出歩けないからね。

 問題は日替わりでやって来るヘルパーさんたちに私のなりすましをどう説明して、更にはどう協力を仰ぐかだ。何しろ突然私がサルバドール・ダリにでも変身していたら施設はおろかご近所一帯にとんでもないウワサがあっという間に広がりかねないからね。パリだかどっかの晩餐会に頭にウンチをのっけて登場するような奴だからさ、肉巻きドレスでステージに立ったガガ姉さんより取り扱いが難しいんじゃないかな。

 とにかく私は彼女たちとこの件に関する個人情報保護法に基づく守秘義務を盛り込んだ契約書を作成した。平日のこの時間帯に目撃した私に関するあらゆる情報を私の許可なく他言またはSNS等で拡散する事を禁ずると。

 月曜日、さっそく私はルイ・アームストロングになりすましてみた。前の晩に久しぶりにレコードを聴いていたからね。ちょっと太めでお茶目な私のお気に入りのジャズミュージシャンだよ。ほら彼がダミ声で歌ったワラワンダフルワールドは誰もがどこかで聞いた事があるだろう。彼は生涯に渡って不眠症と便秘に立ち向かった勇敢な男なんだよ。今の私と同じ悩みを抱えた先駆者と言ってもいいんじゃないかな。


「目は口ほどに物を言う…時に音楽のように」


 不眠症の方は主に音楽で何とか辻褄を合わせていたらしいよ。睡眠導入剤としての音楽だよ。私も時々試すけど、効くかどうかはその日の心のコンディションにもよるんだよ。問題は厄介な便秘の方なんだ。ある時彼はスイスクリスという民間療法薬を試したんだ。ゲイロード・ハウザーとかいう栄養学者が開発したハーブを原料にした便秘薬だって。実のところどれくらい効き目があったかは定かじゃないけと、ルイはこの便秘薬が痛く気に入って友人全員に勧めたり、もっと多くの人たちにもって広告用のカードまで作っていたんだ。便座に座ったルイ自身の写真に「全部出しちゃいな!」ってコピーを添えてね。

 私はもっぱら医者から処方されたマグネシウムを飲んでいるけど、今日からは違うよ、何しろせっかくルイになりすましたからさ。月曜日のヘルパーさんに頼んでまずはお買い物。消化を助けるファンネルにイチジク、生姜にラズベリーリーフにカモミールにローズマリーにブラックペッパーと、ネットで調べたそれらしい材料をかき集めて特製ハーブティーを作ろうと思ったんだ。味の想像が出来なかったから、最終的にはハチミツを投入して誤魔化す事になるんだけどね。

 どれくらいの沈黙があったのかな。ヘルパーさんと顔を見合わせて互いの勇気の程を探っていた。同時にグイッとって手もあっただろうけど、やっぱりココは私が先だなと思い直して一口二口やってみた。悪くない。案外イケる味だった。ヘルパーさんが私の顔を覗き込み、ホント?って感じで笑ってる。私はテーブルに置いてあるスマホを手に取りヘルパーさんに渡してお願いした。コイツを飲んでる私の勇姿を動画に残して欲しいんだと。ルイのあの曲と共にね。

 大昔に、誰かの結婚式で仲人を頼まれて着て以来、殆ど袖を通していなかったブカブカのタキシードに着替え、私はワイングラスに特製ハーブティーを注ぎ直した。ルイが大事なコンサート前に楽屋で一杯やるような感じでさ。こっちで撮ろうかと、ヘルパーさんを楽屋の奥の、いやリビングから玄関に向かう左側にあるトイレへと誘導した。訝しい表情のヘルパーさんが、さっき交わした契約条項の後書きの一文をブツブツと唱えながら私の後に続いた。スマホからはルイのあの曲が静かに流れている。

「コレは私的な思考実験の一部」「決して他人に漏らしてはならない」「例えあなたが何を目撃しようと、ソレは夏の午後の夢の一部である」「余計な心配はご無用、無論余計な詮索も」「それから、目の前の出来事をあなた自身も是非楽しんで頂きたい」「心を無にして、記憶に蘇るあなたの音楽に身を委ねるように」


「余計な心配事は全部出しちゃいな!」


 便座を下ろして私はゆっくりとその上に座った。さあ、録画ボタンを押してくれ。私はこの世界の多くの人たちに伝えたい事があるんだ。だけど悪戯に誤解を招くのも本意ではないから、だからせめて私自身へのメッセージとしてコレを残しておこうと思うんだ。どうしてもね。それが今日の私の使命だと言っていい。

 じゃあ始めるかな。準備はいいかい? ルイの曲がそろそろ終わりを迎えようとしていた。私はグラスを口元に運び、スマホのカメラレンズに目線を送り、ルイの合図を待った。

"And I think to myself.
What a wonderful world.
Ooh, yes ! "

最後のルイの優しい声に誘われ、今の私の思いの全てを吐き出した。
「余計な心配事はコイツを飲んで全部出しちゃいな!」



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