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私がヨガインストラクターになる理由

私は今、ヨガインストラクターを目指して養成スクールに通っています。5か月間におよぶスクールも残り1か月になりました。

指導の練習が本格的に始まったことで、「誰に向けたどんなクラスを創りたいのか?」「私はヨガを通して何を伝えたいのだろうか?」と考える機会が増えました。

それは結局、根本的には「なぜ私は、ヨガインストラクターになるのか?」という問いです。その答えはインストラクターになる決心をした時からずっと直感レベルでは分かっていたのですが、最近やっと言葉として整理出来てきたので、ここに書きたいと思います。

実際に活動を始めてからも、この原点となる気持ちは大切にしたいので、備忘録の意味も込めて。


「大丈夫」を確認し続けたい


「なぜ私は、ヨガインストラクターになるのか?」に対する答えを一言でいうと

「幸せはここにある。だから大丈夫。」

ということを確認し続けたいからです。

日常生活を生きていると私たちの頭や心は忙しなく動き、色々な思考や感情が沸き起こります。そして、時にものすごく悩んだり苦しんだりします。生きているだけでいつも大なり小なりの課題が目の前にあるし、苦しい悲しいことも多いけど、「だけど本当は大丈夫なんだ」ということを確認するツール。それが私にとってのヨガです。

これを読んでくれている皆さんは、今、悩んでいることはありますか?悲しい、苦しい、寂しいと感じる時はありますか?

例えば、先のことに対する不安で一杯になる時があります。キャリアやお金、家族のことなど、考えだすと先の不安は尽きません。

そんな時には静かに目を閉じて、今この瞬間にとどまってみます。すると、自分の奥底に眠っている静けさや穏やかさの存在に気づきます。本当は、問題は何もないこと、本当は大丈夫なことに気づきます。


あるいは、ありたい自分でいれなかったり、自分に価値が無いように思えたりして、自分を強く責めてしまう時があります。自己否定はとても苦しいです。

だけど本当は、私たちは何もしなくたって、どんな間違いを犯したって、ただ生きているだけで十分に尊い存在なんです。存在価値を「証明」する必要なんて、全くないのです。だから安心して今日も呼吸をし続ければ、大丈夫。


友達も家族もいるけれど、結局自分は独りぼっちなんじゃないかって、無性に寂しくなる時があります。

だけど、どんなに頑張ったって本当の独りぼっちになんてなれないのが事実です。私が吐いた息を他の誰かが吸い、どこかの植物が吐いた息を私が吸うように、この地球に生きる限りあらゆる人や自然と勝手に繋がってしまうのだから。この世界は繋がりで出来ていて、私たちはいつだってその大きな繋がり網目の中に存在しているのだと思います。


気付けばたくさんの「~すべき」が増えていって、身体も心も正直しんどい。けれど無責任に放り投げてはいけない、と八方ふさがりな気持ちの時があります。

そんな時は、”社会的責任” や ”大切な人のため”という気持ちを一旦横に置き、まずは自分自身の幸せを追求して大丈夫。それはワガママでも甘えでもありません。あなたが十分に満たされ幸せになることで、あなたの周囲の人に幸せが伝播し、更にその周囲の人達にも伝播し、必ず世界の幸せに繋がるから。自分が幸せに生きること自体が立派な社会貢献だと思います。


だから、大丈夫。
苦しまなくて大丈夫だし、苦しんだって大丈夫。
怒っていても、悲しんでいても、泣いていても、笑っていても、
自分のまんなかには、何にも影響されることない静かで幸せな自分がいるから、外側で何が起ころうと、大丈夫なんです。

繰り返しますが、これを確認するツールが、私にとってのヨガです。

ドラマのような波瀾万丈な日常を生きていると、「そんなこと思えないよ」と、綺麗事に感じてしまうかもしれません。あるいは、資本主義社会で上手に生き抜いたり、富や地位を手にするためにはそんな生ぬるいことマインドではやっていけないと言われれば、そうなのかもしれません。

だけど私たち人間が元来持つ「幸せになりたい」という欲求を本質的に追及していった先に辿り着くのは、「幸せはいつもここにある。だから大丈夫。」という真実(らしきもの)だと、今の私は考えています。


ただし私たちの頭や心は忙しく動くので大切な真実はそう簡単に見えず、見えてもすぐに見失い、煩悩に苦しむのが私たち人間です。私もヨガ哲学の会に参加して、安心と幸せを実感した次の日にはまた悩み始めたりします。

だから何度も「確認し続けたい」のです。


大丈夫”じゃない”社会の集合意識


私たちが悩み苦しむ時、個人的なマインドの問題もあるかもしれませんが、それ以上にこの社会に眠っている「大丈夫じゃない」という不安な集合意識の影響が大きいと感じます。例えば「人間は生きているだけでは存在価値がない」とか「”なんかキツイから休む”なんて甘えだ」などといったものです。令和の風潮的に(?)こういうことを声に出す人は減った気がしますが、それでも私たちが社会全体で共有し合っている潜在意識としては確実に存在していると思います。

これらはお互いを律したり努力し高め合う方向に向かわせる側面もあるし、一方でお互いを薄っすらと締め付け合っている側面もあって、後者の作用が時に個人を猛烈に苦しめているように思います。

私は、「大丈夫じゃない(だから頑張り、高め合おう)」という意識はもう十分に社会に浸透しているから、「大丈夫」の意識の方をもっと皆で共有していけたら良いなと思っています。そして、社会全体の安心度のようなものがもう少し高まると良いなとも思います。

更にその先にある私の根本的な願いは、すべての人が生きる希望を持てる社会です。私は人が生きる希望を失ってしまうことが一番悲しいです。手段は違いますが、この思いはソーシャルビジネスをやっていた時から全く変わっていないどころか、より強くなっています。


大海の一滴かもしれないけれど、社会の集合意識にアクセスしたい。だから私は老若男女国籍問わず、色々な人と一緒にヨガをしたいと思っています。大丈夫じゃなくて泣きだしてしまいそうな人はもちろん、今とっても元気で目の前の学業や仕事、育児などに一生懸命励んでいる人とも一緒にヨガをしたいのです。なぜか。

例えば、あなたが今一生懸命仕事に励む理由の一つに「努力する自分が好きだから」というものがあるとします。もしかするとその裏には「努力しない自分はダメ、嫌い」という潜在意識が眠っているかもしれません。(過去の私です)

その場合、「仮に努力が出来なくても大丈夫。たとえ働けなくなって寝たきりになっても、あなたは生きてるだけで尊い存在だから大丈夫。」と潜在意識では分かっていた方が、良いのではないかと思うのです。

その方が自分自身の土台が安心し、その結果、もしかしたら欲求やエネルギーの段階が一つ上がったり、人は新たな輝きを発揮するのではないか…と、これは仮説として想像しています。

一方で、努力する自分が好きで、実際に今努力できているという人は、「努力しなくても大丈夫」なんてわざわざ思いたくないかもしれません。今が十分充実しているのだから。もしかすると、安心する=走っているレースを降りる、あるいは走るスピードが落ちるといったイメージで、「怖い」と感じる人もいるかもしれません。(これも過去の私です)

けれど私たち人間は、「成長したい」「より良くしたい」「変化を起こしたい」「頑張りたい」など、前向きな欲求を元来持っていると思います。だから安心したところで、結局はエネルギーの火は燃える。あくまで頑張ることや必死になることを否定しているわけではなく、「大丈夫」と安心したうえで自分らしく走ったりたまに歩いたりすることが、幸せな状態なのではないかと思います。

既に私たちは知っている


さて、大丈夫であることを「伝えたい」ではなくて「確認し続けたい」という言葉をあえて使っていますが、理由があります。


私がわざわざ新しい価値観として伝えたり教えたりしなくても、こういう大切なことを、私たちは誰しも既に知っているはずだからです。


私たちが産まれたばかりの赤ちゃんの時、夜中に泣いてどんなに大人を困らせたって、自分存在価値を疑うことなどしませんでした。

未来の不安や過去の後悔だって、他の動物よりも頭脳が発達した人間が時間という概念を作り出したから生まれる”心の動き”に過ぎず、私たちの深い深いところ(魂と呼んでも良いかもしれません)では、「今、この瞬間には何も問題がない」ことを知っているのではないかと思います。

だけど、やっぱり思考や感情は忙しく動くから、大切なことはすぐに忘れちゃう。その度に思い出して、確認したい。その3日後にはまた忘れちゃうので、「確認し続けたい」のです。


なぜ、ヨガなのか


私が実際にヨガをしている時に、自分の奥底から何かがふっと湧き上がってくることが、たまにあります。それは繋がりだったり、「大丈夫」だったり、遠い過去の記憶だったりします。こうして羅列すると少し薄っぺらく聞こえますね…

以下のnoteは、まさにそのような体験した時に書きました↓


しかし、自分自身の内側からジワっと湧き上がって身体で実感した感覚や記憶というのは、同じ内容を誰かに言葉で教わって頭で理解するよりも、より深く自分に浸透すると思います。


小難しく書いていますが、わざわざヨガをしていなくても、誰かとの対話や日常の中でふっと何か大切なことに気づくことってありますよね。その感覚です。ヨガをしなくても私たちは生きてる中で大切なことを学び、忘れ、また思い出すことを繰り返します。

じゃあなぜあえてヨガなのかというと、ヨガはそのプロセスを辿る近道であり、やはり”便利なツール”だからです。

ヨガの元々のルーツは精神の修行や瞑想法ですが、ポーズ(アーサナと言います)をとる体操の要素が加わっているのが、色々な宗教や哲学と異なるヨガのユニークな点だと思います。体操をして筋肉の緊張がほぐれると、普段よりも深い呼吸ができるようになります。呼吸が深まると次第に身体がリラックスしています。身体がリラックスすると、頭や心も静かになりやすいです。静かに集中した状態になると、自分の深いところと繋がることができる。その中でたまに真実(らしきもの)がジワっと湧き上がってきたりする。

そんなイメージです。やっぱりマットに座って意識的に集中すると、早いよねという感じ。


ここからは少し余談ですが、実際のヨガのクラスでインストラクターとしての私が出来るのは、身体をリラックスさせて、心を静かにするお手伝いをするところまでだと思っています。プラスで出来るとしたら、私が大切だと感じていることを、言葉や空気を通してその場に放ってみることくらい。

そこから先、クラスに参加する人たちがその空間で何を受け取るか・何も受け取らないか、何が湧き上がってくるか・何も湧き上がってこないかは、インストラクターにはコントロールできません。それは、その日の体調や心の状態、天気、場所や参加者がもつエネルギー、その人の中にどんな歴史が眠っているかなどによるからです。

私も色々なヨガのクラスに参加していて、涙が出る日もあれば、身体がスッキリ爽快になる日もあれば、特に何も感じなかったなーという日もあります。その偶発性に身をゆだねて、コントロール出来ない結果•収穫を観察するのも、また面白いです。

私たちは基本的に状況や思考、感情、他人、人生プランなど気付けば色んなものをコントロールしようとしてることが多いので、ヨガの時間ではあえてコントロールを手放し、委ねる練習をするのも楽しかったりします。


別に、ヨガじゃなくても良い


最後に、私のヨガとの出会いについて書いてみます。

私は2年前、22歳の時に最愛の母を亡くし、その後うつ病になりました。結構苦しい時間を過ごしました。

なぜ母は今死んでしまったのか。
母の人生は幸せだったのか。
最期の時間、なぜ母に愛を持って接することができなかったのか。
魂とかいうけれど、母は今どこにいるのか。
どうしようもない寂しさと虚無感は一体いつ消えるのか。
こんなに苦しいのになぜ生きなきゃいけないのか。

「考えないようにしよう」と思って仕事に集中しようとしましたが、どう頑張っても疑問は消えませんでした。丸一年ほど悩み考えましたがずっと堂々巡りで余計に苦しむだけ。

一人で考えたり身近な人に話しても中々答えが分からない問いであり、だけど答えが分からないと私の心は一向に前を向けない。さあどうする…

そんな時に友人の誘いで訪れたのが、京都にある真言宗のお寺、実験寺院 寳幢寺でした。それまで私は仏教や宗教には縁がありませんでしたが、もう悩み疲れて「先人の知恵を借りるしかなさそうだ」と思いフラリと訪れたところ、ご住職の松波龍源師は、私の疑問の全てに仏教哲学の論理に基づいて答えてくださりました

一対一で頂いた対話の時間は、寄り添いとか救いといった時間ではなく、論理の時間。「仏教のロジック、めっちゃすごいな…」というのが一番の感想でした。人間の生と死、カルマ、生きる意味などに関する仏教哲学の考え方=知恵を与えてもらい、その知恵が結果的に私の心を大きく癒してくれました。

数日間滞在させて頂き京都を経つ日に、
「今後もこの知恵を深めてみたいのだが、仏教哲学を学ぶ環境が身近にない。ヨガ哲学を学ぶ環境は最近見つけた。ヨガでも良いか?」と龍源師に尋ねたところ、ヨガと仏教は重なるところが大きいので良いのではないかと言って頂いたのがきっかけで、ヨガ哲学を学び始めました。

(ヨーガスートラを読んだり、福岡県のヨガ講師・山本香苗先生が開催されている”ふんわりヨーガ哲学の会”に毎月参加しています。いつかの回の終了後に書いたnoteです ↓ )


この私自身のストーリーで伝えたかったこと。
それは仏教でも、ヨガでも良い。キリスト教でも、イスラム教でも、フラダンスでも、コーチングでも、仕事でも、育児でも、恋愛でも、何でも良いということです。

何でも良いというと少し語弊がありますが、結局私たち人間は「幸せになりたい」という共通の願いに向かって、それぞれが選択した道で日々を生きているということです。その主語は、人それぞれだと思います。まずは、自分が幸せになりたい。次に自分と大切な人たち。どんどん広がって”生きるものすべての幸せ”を願うようになるんだと思います。

私をヨガに導いてくれた恩師、山本香苗先生は「山の頂上は一つ。だけど山の登り方はいろいろあるよ。」とよく仰います。どっちの登り方が正しいかとか優れているとかで争うのは不毛だよね、余計な苦しみを生むよね、と。その通りだと思います。


私はたまたまヨガと出会い、ヨガを深めることを選択し、今その道の最中にいます。これを読んでくださっている皆さんは、今どんなことと向き合っているでしょうか。お互いにそれぞれの方法で、少しずつ山の頂上に向かって行けたらいいなと思います。

もし、これを読んでヨガを試してみようかなと思った方は、ぜひ一緒にやってみましょう。来年の2月ごろからクラスを始めようと思っています。

なんだかんだと書きましたが、身体も心もすっきりして、ヨガはシンプルに、良いよ!というヨガの世界へのお誘いを最後に添えて。

長い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
あなたが今日も幸せでありますように。

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