2023年新春、子どもに伝えたい、「自分がいままで積み上げた努力を信じて、全身全霊で最後の1秒までやり遂げて欲しい!」。【エッセイ】【社会貢献】
「選手である前に、人間であれ」、それを体現できてると伝わるから、「早田ひな」「今村聖奈」は「観ている人間の心を惹き付ける」のでは。
「2022年を代表する人間」。自分は1人には絞れませんが、2人ならば即答で挙げられます。
そう、「『早田ひなさん』(卓球選手)と『今村聖奈さん』(騎手)」と。
「この1年の成績的な成長が顕著だったから」。確かにそれはあります。
「華があるから、かわいいから」。確かにそれもあります。
ですけど、早田さん、今村さんが、なぜ、「観ている人間の心を惹き付けるのか?」。
「選手である前に、人間であれ。」
どこで出会った言葉かは記憶してませんけど、自分はこの言葉に、とても強い共感を抱きます。このように考えるのは、自分自身の経験からです。
自分が歩んできた道は、いわば「異色の歩み」と感じてます。
「挫折」「回り道」「紆余曲折」の連続。
自分が歩んできた道は、正直これです。
特に大学受験は、「思い出したくないほどの『とても大きな心の傷』、でも自分自身に大きな影響を与えた記憶である」感じです。
ですけど、小学生のときから、いろいろな個性の人間に出会えたこと。
これは、自分自身の「心の財産」になっています。
「ほんとうに素敵な人間」に出会えるようになったのは、2011年9月、当時の自分は既に「27歳」でしたけど、東日本大震災の復興支援活動に参加させて頂くようになってからです(NHK総合の『おはよう日本』がきっかけで、「学生に特化した復興支援団体」に出会えたことが大きかったです)。
いわば自分は「よして頂いている立場」「巻き込ませて頂いてる立場」でした。で、中には「10歳以上年下の人間」もいました。
ですけど、2011年以降、いわば東北に向き合うようになってからの「いくつもの出会いや経験」は、「自分自身の生き方、価値観」を大きく変えました。でもそう思えるのは、それまでの出会いや経験があったからと、いまならば思えます。
どういうことかというと、自分が中学受験や大学受験で出会った人間で、
「能力はとても高いけど、人間性が『冷酷』な人間」
がいました。言い換えれば
「『最高の頭脳』と『最低の人格』」
そう、まさしくこの言葉が「すとんと落ちます」。友人になれれば自分にもメリットが確かにあるかもしれない、でもその人とは「できれば交流を持ちたくない」感じであったことを記憶してます。
そう、東北に、あるいは社会に向き合う過程で出会ってきたいくつもの出会いでは、この「周りの心に光を灯せる」人間に、何人も出会うことができたのです、いわば「刺激をもらえる」存在に。
「人間として大切なこと」は、そういった人間たちから学ばせて頂いた(勿論すべてではないけど、いくつかのことは確実にそうです)、そう強く感じてます。
そう、先述で、「『2022年を代表する人間』は、自分は『早田ひなさん』と『今村聖奈さん』と思っている」と述べましたけど、下記のことが理由としてあると感じてます。
この「選手である前に、人間であれ」がとても伝わるのが、早田さんの場合でだと、冒頭に示させて頂いた「全日本選手権での優勝インタビュー」です。
(1)から伝わるのが「努力し続ける姿勢」。
(2)(3)から伝わるのが「感謝し続ける姿勢」。
「努力」「感謝」のいずれも、勿論「人間として大切なこと」です。
ですけど、この姿勢をずっと続けられること自体が、とてもすごいことだと思う、自分も見習いたいと改めて感じるのです。
卓球あるいは競馬は、自分にとっては正直「専門外」です。
自分のスポーツ分野でのメインフィールドは「野球」「バスケットボール」ですので。
で、自分が早田さんを「一人のスポーツ選手」として向き合えたのは、いまリンク添付させて頂いた、NHKBS1『スポーツ×ヒューマン』の「2019年6月17日放送回」で、早田ひなさんを取り上げていた回の視聴がきっかけです。
当時の時点では、名前は存じていたけど、どんな選手かは知らなくて(このとき、早田さんは「あと1か月で19歳」。ちなみに中学生のときから「将来性に期待の選手」として名前は挙がっていました)。
で、当時の放送から感じていたのが、「『努力し続ける姿勢』が人一倍である」こと。ですので、「いつか大きな花を咲かせて欲しい!」と思ってたんですよね。で、花を咲かせ始めたのが、まさしく昨年である「2022年」であったと。
そう、昨年、ついに「ブレイクした」感じですけど、昨年のいま頃は、早田さんはまだ「日陰の存在」でした。そう、同学年の「永遠のライバル」である「伊藤美誠」「平野美宇」の2人がいたが故に。
「いつか自分だって」、心の中では、ずっとそう思っていたと想像します。
このように、「ライバルをリスペクトできる姿勢」。
これ自体がとても素敵だなと思うのです。そう、早田さんの「心の強さ」が伝わると。
で、いまリンク添付させて頂きましたけど、早田ひなさんの故郷は北九州です。
早田さんは昨年9月に、旦過市場の火災(2022年に2回の火災に遭った)への「支援金としての寄付」として、直近の大会での優勝賞金(100万円)を全額まるまる寄付に充てたのです。
そう、「全日本選手権での優勝インタビュー」や「ライバル(伊藤美誠、平野美宇)への想い」にもいえますけど、「『感謝を大切にできる姿勢』が人一倍であること」、これが早田ひなさんの大きな魅力の一つです。
(余談ですが、ちなみに福岡は、いわゆる「芸能人王国」でもあります。 実際、北九州市だけでも、「草刈正雄さん」「光石研さん」「つるの剛士さん」「中尾ミエさん」「前田佳織里さん」「中原麻衣さん」「高田憂希さん」などが挙がります。
また、野球の「今永昇太さん[横浜DeNA。投手]」も、北九州が故郷です。)
そう、自分が、卓球は正直詳しくないのに、なぜ、早田ひなさんを「応援し続けたい」と思えるのだろうと考えると、「『人間としての姿勢』がとても素敵だから」に辿り着くのです。
で、「2022年を代表する人物」。2人目は、「今村聖奈さん(騎手)」です。
2022年、今村さんにとってはデビュー年でしたけど、「デビュー1年目の女性騎手としての記録を次々と樹立した」年でした。
「デビュー年で『51勝』」、これは「JRAの騎手1年目としては歴代5位」とのことです。
とにかく、それこそ毎月の感じで、今村さんのことはニュース(特にスポーツ紙。これはweb版を含めてです)でよく耳にした。
「彗星の如く」「センセーショナル」という表現は、まさしく「2022年の今村聖奈さんにぴったりの表現」と強く感じます。
今村さんの実力が「本物だ」と証明されたといえるのが、2022年7月3日の「CBC賞(GⅢ。このときは日程的な理由で「小倉競馬場、1200m」での開催でした)」での「重賞での初勝利」でした(騎乗馬は「テイエムスパーダ」)。
大胆なまでの「大逃げ」。しかもスタミナを切らすどころか、ラストの直線でさらにギアを上げている、いわば「逃げて差す」完勝劇。
「1分05秒8」は、「レコードタイム」でした。
というのも、日本の競馬の世界は「The・男性社会」です。
確かに、競技の構造上、ある程度は仕方ないかもですけど、それにしても「極端に男性社会だよなあ…」という違和感は、正直ずっとありました。
(競艇、競輪は女性選手の活躍の場があることを考えるとなおさら。)
そう、いわば今村さんは「ガラスの天井」を打ち破ろうとしている。
一気に話題をさらったのは、一つにはこれがあると思います。
「強い人間に立ち向かう姿勢」と映っているのではと。
今村さんは、「馬と会話ができる」という逸話を持ちます。
で、今村さんの場合、父親が元騎手ですので(いまも調教助手なので、競馬業界の人間である)、いわば「2世」である「心理的アドバンテージ」は、あったかもです。
ですけど、今村さんのすごさの本質は、(早田さんと同様に、あるいはそれ以上に、)「努力し続ける姿勢」「感謝し続ける姿勢」にある、と自分は考えます。
(1)(2)からは、「感謝し続ける姿勢」が伝わります。
(3)からは、「現状に満足しない」「成長し続ける」という強い気持ちが伝わります。
そして、今村さんの「すごさ」を象徴しているのが、「小倉ターフ賞」の受賞コメントである(4)の言葉です。人間として大切なことが凝縮された「とても素敵な言葉」にして「名言」である、と自分は感じます。
で、今村さんの「小倉ターフ賞」受賞時のコメント時は、まだ「18歳」(「高卒社会人1年目or大学1年生」相当)です。大学1年生でこれを学んでいる、体感できている、そして実践できている人間がどれほどいるだろうか?と。それこそまさしく「人間としての器量」が伝わるのです。
そう、こうして騎乗機会を持たせて頂けることは「当たり前ではない」ことを知っている、学んでいることが伝わります。
今村さんの2022年の「51勝」は、「新潟」「小倉」で荒稼ぎしたものである、確かにそうかもです。ですけど新潟と小倉は特徴が大きく異なる競馬場であり、そう考えると「既に高い技術がある、少なくとも若手トップレベルであることはいえる」のではと。
(新潟は「左回り&長い直線」が特徴で、小倉は「右回り&細かいコーナーワーク」が特徴です。ですので「より輝ける馬のタイプ」がそれぞれ全く異なります。)
あるいは、今村さんがこうして注目された、それこそ「彗星の如く」の印象を与えたのは、2021年の『ウマ娘』の大成功による「競馬界のイメージアップの成功」(少なくとも「裾野を拡げた」ことは確かでしょう)がプラスの追い風要素になったことも、少なからず大きいと思います。
ですけど、今村聖奈さんを応援したくなるのは、かなり簡潔に述べれば
このことに尽きます。少なくとも「おごり」「慢心」は全くない、その一方で「初心、原点を持ち続ける姿勢」が伝わることは、はっきりといえます。
「最高の景色」へと上り詰めることは、とても大変なことです。でもその一方で「転落すること」は、少しでも下り坂になれば程なくしてそうなります(それこそ「一瞬にして」も充分に起こり得ます)。
このことがあるから、今村さんは「観ている人間の心を惹き付ける」、そう強く抱くのです。
恐らくこれから、「壁にぶつかる」ことが少なからずあるだろうと思います。努力しても目標との距離が遠いまま、ということも起こるかもです。
恐らく、今村さんの「最大目標」は、「GⅠでの勝利を叶えること」と想像です。自分も一人の人間として、「今村さんがGⅠでの勝利を叶える景色を見たい!」、そう強く思ってます。
そしてこれからも、今村さんの「努力し続ける姿勢」「感謝し続ける姿勢」「プロ意識」の歩みを、とても楽しみにしています。
で、「選手である前に、人間であれ」がとても大切な事例と感じるのが、例えば、「日本の野球殿堂」の投票です。そう、「成績」と共に「人間性」も併せてとても重要視されています。
(尤も、日本の野球殿堂の投票は、「明確な目安的な基準」がないこと、言い換えれば「主観や裁量の余地が大きすぎること」にあるともいえますが、それはここでは置いておきましょう。)
「輩(やから)」という表現はとてもきつい言い方だなあ、とは感じますけど、でも「記者に誠実に対応しない人間と一緒に仕事がしたいと思えますか?」ということをも含めて考えると、正直、この言葉には「とても共感できます!」の感じです。
で、「早田ひなさん」、「今村聖奈さん」、あるいはかつて取り上げた、陸上の「鈴木亜由子さん」、「田中希実さん」、バスケットボールの「河村勇輝さん」にもいえますけど、彼女たち5人に共通しているのは
なんですよね。そしていま挙げた5人は、一人の人間としてこれからもずっと「応援し続けたい!」と強く感じるのです。
「自分がいままで積み上げた努力を信じて、全身全霊で最後の1秒までやり遂げて欲しい!」、それが「かつての受験生」として伝えたいこと!
「2月1日」。実は例年、関西の有力私立大学、特に「関関同立」の入試日の開始日です。自分もそうでした。
厳密には、関西圏の大学入試は既に始まっています(今年だと、「1月28日」頃からですかね?)。
かくいう自分。「大学受験は、永遠に思い出したくないトラウマ」です。
自分の大学受験は「2003年」でした。つまり「あの悪夢から20年」です。
すべてが狂い始めたのは、「1月1日水曜日、つまり元日」の未明。
いままでで経験したことのないような高熱、確か「40度超え」です。
診断は「インフルエンザ」でした。予防接種を打っていたのに。しかも「注射がこの世で最も大嫌いである自分」だけど、インフルエンザの予防接種は毎年必ずしていたのに。
高熱自体は、確か3日ほどで収まりました。ですけど「だるさ」は1週間ほどかかり、何よりもインフルエンザ以前は頭の回転がよかったはずなのが、「感覚的な狂い」を漠然と感じていました。
いま思えばですけど、この「『感覚的な狂い』を取り戻せないまま、大学受験の本番に突入してしまった」、あるいは「『感覚的な狂い』から気持ちを切り替えることができなかった」と感じています。
で、自分の大学受験の初日、「1月25日」。龍谷大学の前期A日程で、この日は土曜日、しかも「雪」でした。
実は「寒さ」が大の苦手で、しかも「雪」「雨」になると頭の回転が悪くなる傾向でしたので、いま思えば「漠然と嫌な感じ」を無意識的に抱いていたのかもです。
第2志望校でしたけど、オープンキャンパスで気に入った感じでしたので、その意味でもまずはいいスタートダッシュをと思っていた。
で、自分は、日本史が「超得意科目」(それこそ「絶対的な生命線」でした。英語が苦手でしたのでなおさら「日本史での高得点ありき」が自分にとっては「とても重要」であったのです)でした。配点は「英語100点-国語100点-日本史100点」でしたし、過去問でも模試でも、「まず受かるはずだ」の手応えでした。
しかしこの初日、龍谷は「日本史→国語→英語」であったと記憶ですけど、日本史の1問目で、自分が恐れていたことが起こります。
実は日本史の中で、ほぼ唯一最大の不安要素が「原始時代」でした。
「流れをつかんだ上で覚える」ことを得意にしていた自分が、この原始時代だけはどうしてもこれができずに苦戦で。
で、日本史の1問目が、「原始時代」でした(大問は確か3問あったと記憶です)。問題文を開けた瞬間、「げっ、やばい」と感じたことを、漠然とですが覚えています。
当時は「解答速報」がなかったのですけど、日本史は教科書、資料集、用語集があれば「およその自己採点」はできますので、1月26日日曜日の試験をも終えて、月曜日に自己採点をしました。そしたら日本史の1問目の正答率は、正直「ひどいもの」でした。それこそ模試でも一度もなかったような「壊滅ぶり」であったと。
ですけど、第1志望校である関西大学の初日、「2月1日土曜日」まで、「あと5日」ある、立て直す時間はある、そう言い聞かせていたはずなのです、それに日曜日の日本史は「いつも通り」に戻せていたのでと。
さあ、「2月1日土曜日」。高校2年生の夏から、この日のために努力してきた、誰よりも積み上げてきた。そう自負して臨んだはずでした。
しかし、ここで「第2の誤算」が。苦手である英語が、問題の傾向が大きく変わったのです。「とても激しく動揺した」ことを、いまでもこれははっきりと記憶しています。そしてもう、この初日は「全然だめだった」と。
本命の学部(法学部)の試験は「2月5日水曜日」。その間に、第3志望校(京都産業大学。最終的にはここに現役での進学でした)の試験、しかも傾斜配点方式の試験があったので、ここで「自信、感覚を取り戻す」のイメージでした。
傾斜配点方式、自分の場合は「英語100点-国語150点-日本史200点」で、まあ結局は「これでしか戦えていなかった」になるのですけど、「よしいける」と感じて、さあ本命の試験、の感じでした。
ですけど、本命の学部の試験。正直、どのような感じであったのか、未だにほとんど全く記憶できていません。ただ記憶にあるのは、「いつも以上に無我夢中だった、何をいわれても過緊張のあまり上の空(うわのそら)状態であったらしい」、ということだけです。
で、第1志望校(関西大学)の全日程が終わり、その最終日の帰りに第2志望校の合格発表でした。「1日目はだめだろうな、でも2日目は届いているはず」、のイメージでした。
では結果はどうであったか。
結果は、「第3志望校(京都産業大学)に、現役での進学」でした。
「浪人を回避できた」意味ではよかったですし、大学生活は、結果的には「学べたこと、失ったことの両方を感じたけど、全体としてはむしろプラスであったとはっきりといえる」感じです。ただ、「思い描いた青春ができなかった」ことも、正直な感じです。
自分の大学受験は、「とても苦い記憶」です。話すととても長くなりますけど、いま思えば「本番を前に、心と身体のバランスを既に壊していた」感じですので。
「判断の失敗」。正直いくつもありますけど、特に「龍谷大学のB日程を、熟考の末に『回避の決断』をしたこと」、これはいまでも「ずっと後悔し続けている」ことです。あのとき「B日程を受ける決断」をしていれば、まず確実に合格を確保できていたはずだ、もっと違った歩みができていたのでは、この後悔は正直ずっとあります。
(当時の「龍谷大学のB日程」は、いわゆる「1.5次日程に相当」。ですので合格ラインが下がり、模試や過去問の成績からすれば「まず受かる」感じでしたし、実際に龍谷のA日程の2日目でも、「B日程ならば合格ラインを突破」でしたから。)
いまでこそ、「回り道をした」ことで、27歳からと他者よりはとても遅かったけど、ずっと欲しかった「心の青春」を叶えることができて、そこからも紆余曲折でしたけど、あの大学受験のときとは「なりたかった自分」の姿は正直異なるかなですけど、「自分の道」を歩み始めている感じです。
軌道に乗れている感覚は、正直まだないです、ですが「前を向いて歩めている」意味では、ここまで長かったけど、これでよかったといえるかなと。
それに、「挫折」「回り道」「生きづらさ」の連続であった人生だからこそ、「挫折」「回り道」「生きづらさ」を余儀なくされた人間の気持ちが、人一倍理解できることは、自分の強みであると思ってます。
いまでは、いわゆる「総合選抜型入試」(かつては「AO入試」と呼ばれていた)が普及してきています。この「総合選抜型入試」は、賛否両論がありますけど、自分は「いわゆるペーパーテストだけでは測り切れない、その人それぞれの長所・持ち味がより反映されやすい」意味で、とても有意義な制度であると強く感じています。
ですけど自分の時代は、この「総合選抜型入試」がまだ導入されて間もない時期で、関西圏では「ほぼゼロに近い」感じでした。もし「総合選抜型入試」が普及している時代であったら、自分は全力でそれを目指していたでしょう。
そう、自分は「大学受験」では失敗した人間です。
しかも自分は、実は「中学受験」でも失敗で、第3志望校に進学でした。
自分は、私立の中高一貫校(上宮)で学んでいました。
近くには、いくつもの有力な私立・国立の学校がありました。
「四天王寺」「大阪聖光学院」「大教大附属天王寺」「大教大附属平野」「明星」「清風」「大阪女学院」「プール学院」「(大阪)大谷」「近畿大学附属」「(大阪)樟蔭」等々。
で、いま、仕事場として、天王寺のカフェを使わせて頂いてますけど(コワーキングスペースを使うこともありますが、それよりは安上がりですので)、自分がもともと「子ども好き」なこともありますけど、いま挙げた学校(有力な私立・国立は、正直「制服で分かる」ので)の子どもが、夕方になるとカフェを訪れるのです。心の中で、「あなたらしく輝いて、成長し続けて!」とエールを送りたくなるのです。
そのような感じですけど、「大学受験での悔しい経験は、自分自身を成長させた」ことも正直な感じです。自分が「2月1日」を新たなるスタートの日に選んだのは、「あの悔しさを絶対に忘れない。自分の人生は、あの悔しさから逃れることはあり得ないのだから。」という想いを込めていますし。
で、大学受験で悔しい想いをして、大学生活では馴染むまで実は1年強を要しました。2年生になってようやく馴染めたのが正直な感じです。
実際これは成績でも顕著で、2年生以上に限れば学年トップ争い(いわゆるGPAでどれほどの位置にいるかはおよそ読めるので)でしたけど、一般教養や語学の比重が高い1年生での成績が響いて「成績優秀者」には少し届きませんでした。
ですけど、大学受験での悔しさや苦悩が自分を支えたことも、正直な感じです。
「大学受験の悔しさ」を踏まえて、その後の人生で「自分が特に強く心掛けていること」があります。
「全身全霊」「努力に勝る天才なし」「最後の1秒まで絶対にあきらめない」。
いずれも自分自身が「とても大切にしている言葉」で、特に、「全身全霊」は自分自身の最大の「座右の銘」です。
東北に向き合うようになってからは「魂を燃やす」という言葉を好んで用いるようになってますけど、この「魂を燃やす」も「全身全霊」の延長線上の言葉です。
このことが、自分が今回のnote記事で、「受験に臨む、あるいはこれからの進路に臨む子ども(あるいは大学生、大学院生を含めてですかね)に伝えたいこと」です。
あるいは今回の記事の前半部分で、「努力し続ける姿勢」「感謝し続ける姿勢」の大切さを強調させて頂きましたけど、これもまた、「人間としてとても大切なこと」ですし、「全身全霊」「最後の1秒まで絶対にあきらめない」と相通ずることと強く思うのです。
「努力し続ける姿勢」は「向上心」に、「感謝し続ける姿勢」は「思いやり」に強く結び付きますし、この「向上心」「思いやり」こそが、「人間として最も大切なこと」である「プロ意識」に強く結び付く、そして「人間としての最大目標」といえる「天職」に就くことを叶えることに結び付く、自分はそう強く考えています。
このような社会像が叶うことが、自分が一人の人間として「叶えたい景色」です。
「2023年2月1日」。今日は自分にとって、noteを開設して、そして「書くこと、伝えることで生きていく」道を歩み始めて、ちょうど1周年です。それは「誰かを応援し続けられる人間でありたい」と強く決心したからと。
これからも、「初心、原点を大切にして」「思いやり、向上心、プロ意識を持ち続けて」、歩み続けようと強く思います。
【エッセイ#13A】【社会貢献#5A】
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