見出し画像

一章・口づけは頬に。

 美しさは隠せないと、彼女を見ているとそう思う。
「ひさびさーっ」
 でもないか、と片手をあげて、改札口を抜けた彼女が小走りに近づいてくる。平日とはいえちょうど帰宅ラッシュの時間帯のせいか、駅前はひとで溢れていた。たった数メートルの間に、ひとり、またひとりと男たちが彼女を振り返ったのだけれど、当の本人はちっとも気づいてなどいない。
 街中で見ると、彼女のスタイルがどれほど抜きんでているかということがよくわかる。身長はさして高いほうではないけれど、小さな顔に細く長い四肢、全体的に華奢でバランスが取れていて、モデル体型というのはこういうことを言うのだろう。
顔立ちも決して派手ではないけれど、ひとつひとつのパーツが恐ろしいくらいに整っている。白いTシャツにデニムのパンツ、少しだけかかとの高いサンダル。ラフな恰好をしているのにも関わらずひとの目を惹きつける独特のオーラがあった。
そんな人間が満面の笑みで駆け寄るのはいったいどんな人物なのだろう。そんな好奇の眼差しで、男たちが彼女を見てからわたしへと視線を移す。
 落胆、とまではいかないが、どこか釈然としないといった様子で、すぐに目をそらすのがわかった。どんな想像をしていたのか知らないが、勝手にがっかりされるこちらの身にもなってほしい。
 もうずいぶんと前から、慣れっこなのだけれど。
「久々ね、ちょうど一か月ぶりくらいかしら」
 彼女がわたしのそばまでやってくると、わたしはできるだけ平然を装って、はにかむようにしてそう言った。
 彼女とはもともと、同じ店で働くライバルだった。ライバル、といういい方が正しいのかはわからないが、少なからず競い合っていた時期もあったと思う。二十代の頃、小遣い欲しさに働きだしたキャバクラで意気投合し、辞めたあともちょくちょく遊ぶようになった。
三十代になって、彼女が出したスナックでちょっとした手伝いをするようになった。その店も、彼女が三十五歳になった誕生日当日、惜しまれつつも閉店した。それから、あっという間に一か月が経つ。
「そうか、もう閉めてから一か月も経つのか。ラストの日はありがとうね。ばたばたしてたし助かったよ」
 屈託もない笑顔で彼女がそう言って、どちらからともなく歩き出す。
「いーえ、でも、すごいわよね。本当に有言実行。まさかあんなに繁盛してたのに、店、簡単に閉めちゃうとは思わなかったよ」
「そう? ま、ずっと続ける気はなかったからね」
 ずいぶん余裕だなと、うらやましくなる。繁華街の一等地、決して狭い箱ではなかったけれど、少なからずわたしが出勤していたときは、たいそう繁盛していた。欲が出て当然だろうに。
けれどすぐさま、うらやんでも無駄だと頭の中で切り替える。そもそも最初から彼女は、周りとは違っていた。価値観も、存在感もなにもかもが規格外だった。
 キャバクラでアルバイトしていたときも、成績はいつだって彼女がダントツ一番だったし、周りの子たちが客の取り合いやくだらない揉め事ばかりを起こしている最中、彼女にだけは誰も手だしはしなかったし文句もなかった。そうかといって偉そうにふるまったり傲慢な態度を見せることはまるでなく、みんなから憧れの目で見られ、好かれ、愛され、頼りにされ、大事にされていたように思う。
 つまりは、わたしのような女とはまるで違う生物なのだ。
恵まれた容姿にまっすぐな性格、愛されることが前提で生まれてきたようなものだ。最初からきっと、何不自由なく育ってきたのだろうと思う。
「ユリは最近どうなの? パートしてるんだよね?」
「うん、してる。息抜き程度にね」
 繁華街の入り口にある行きつけのバーに、流れるようにして入った。
 給料日前の平日だからだろう。ここへ来る途中、店の戸口に立って暇そうにスマホをいじっている客引きやガールズバーの女の子たちの姿がいくつもあったが、この店も同様に暇そうだった。
 入ってすぐ、欠伸をかみ殺した若い従業員たちが「いらっしゃいませ」と慌ててカウンターの中で一斉に立ち上がった。
「昼でしょ? 続いてるみたいでよかった」
「うん、昼間よ。完全に昼のひと」
 いつもの定位置、カウンターの奥に並んで座ると、顔見知りの店員が「お久しぶりです」と声をかけてくる。化粧の濃い、まだ若い女の子だった。確か名前は……、マコといった。胸の名札に、手書きで大きく書いてあるのをちらりと見て確認する。
深く話したことはないが、おそらくこの子も元同業者だろう。水垢は、なかなか簡単には拭えない。
バーテンの制服に身を包んでいても、仕草や酒やけした低い声、強弱のはっきりとした独特の喋り方でなんとなくわかってしまう。
 この街では大抵、水商売を上がってもバーや居酒屋などの飲食店に転職するか、またべつの箱でホステスをはじめてしまう人間が多い。
 神奈川県の端っこ、限りなく東京都に近い場所にあるこの街は、もともとは工業地帯として栄えた。そこから長い年月をかけて少しずつ少しずつ商業施設や娯楽施設が増えてゆき、いまでは駅を降りてすぐの大通りに、競い合うようにして飲み屋が乱立している。関東屈指の盛り場だった。
交通の便もよく、働く店を探すのにも困らない。そのわりに治安の悪さも手伝ってか、家賃が安い。そうしてこの街で生きる者は、この街を出ていくことをせず長く居座る。
 わたしや彼女のようなタイプは稀だった。よその街で生まれ育ちここに流れ着いて、辞めたと思ったら完全に水商売を上がるような人間は、この街では本当に少ない。
「ご注文は、いつものカシスオレンジと……」
 そこまで言った店員が、ついでわたしに視線をうつした。
「あ、レッドアイで」
 彼女と同じだけ店に通っているのだから、いい加減わたしの注文も覚えてほしいものなのだけれど。言い出したらきりがないので口にしないでおく。
「ユリ、いま会社勤めなんだっけ? 事務のパート? すごいよね」
「すごくないよ、パソコンしてるだけだから」
「いや、すごいよ。事務仕事って頭使うし、細かい作業が面倒だって聞くし。真面目に昼職してるんだから、ユリはすごいよ」
「うん、まぁ、簡単なことしかしてないけどね」
 さらりとほめてくれる彼女に苦笑いをしてから、目を背けた。本心からすごいと、そう言ってくれているのだろうと思う。だからこそばつがわるい。
本当はパソコンなど一度もいじったことはない。ただのビル清掃のおばちゃんだった。時給だって安いし、てきぱき動けるわけではないから古株のおばさんたちに叱られてばかりいる。
根掘り葉掘り聞いてこないぶんごまかせるけれど、事務職なんて嘘っぱちだった。
「お疲れ」
「お疲れ様」
 グラスが運ばれてきてすぐに、乾杯をした。一口飲んでから、彼女が細い煙草に火をつける。煙がこちらに流れてこないようにして、紫煙を吐き出す。そういうちょっとした気遣いが、当たり前にできるひとだった。
同じ喫煙者でも平気な顔をしてひとの顔に煙を吐き出すような人間を、わたしは何人も知っている。
「いやでも、ユリが事務職かぁ。想像つかないなぁ」
「そう?」
「うん、昼なら昼で、もっと華やかなのが似合う気がして」
「なにそれ、例えば?」
 自分のほうが、ずっと華やかなものが似合う女だろうに。
「うーんと、受付嬢とか。アパレルとか、エステとか、メイク系のお仕事とか」
「デパコス売ったり?」
「そうそう、美容系ね」
 頬杖をつき振り向いた彼女が、にっこりと笑う。同年代なのにも関わらず、彼女の頬には毛穴ひとつ見当たらない。
わたしが本当にデパ地下でコスメを売る店員ならば、なんのためにここに来たのだろうと内心疎めしく思うだろう。
「でもわたしは、いまのパートで十分満足かなぁ」
「そっか。ま、旦那さんからしても安心だろうしね」
「うん、まぁね」
「うまくいってるの?」
「もちろん」
 そう言って、今度はわたしが、にっこりと笑みを浮かべた。
「忙しくても毎晩ちゃんと一緒にご飯だけは食べるようにしているし、お休みの日は必ず買い物に行くのに車出してもらってる。子どももいないしね。なんか、まだ先は長いのにすでに熟年夫婦みたいな感じよ」
「うらやましいなぁ。ユリの話を聞いてると、わたしも結婚したくなってくるよ」
「そう? ほんと?」
「本当。どうせわたし、死ぬまでもう独り身だもん。誰にも看取られず死んでいくのよ」
 ぷくぅっと頬を膨らませる彼女を、肘でつついて見せた。
「また、どうせ選り好みしてるだけでしょ? 探したらいくらでもいるんじゃないの? 周りに」
 そんな女ではないと、わかっている。
「そうなのかなぁ?」
 それなのに、彼女は否定しない。
「それとも、ずっと忘れられない誰かがいるとか、そんな感じ?」
「そんなわけないでしょ。いたらちゃんと話してるわよ」
「そっか」
 本当に? 本当に話してくれている? 気分が降下していきそうで、一気にグラスを空にした。
 彼女と出会ったのが二十五歳の頃、いま、互いに三十五歳になった。
十年、十年も一緒にいるのに、彼女の恋愛話は、聞いたことがないに等しかった。
 時折突っ込んで聞いてみるけれど、いまのようにのらりくらりかわされてしまう。
 だから、もしかしたら、もしかして――男に興味がないのではないかとすら、勘ぐってしまうときがあった。

「おかえりなさい」
 玄関を開けてすぐ、薄暗い室内にたたずむ人影がわたしを見ていた。
「え、なに、いつからそこにいたの?」
 ぎょっとして、目を見開いてしまう。
「いまだよ」
「そんなわけないでしょ。こんな、タイミングよく」
 玄関を開けた瞬間に、目の前に立っているなんて。
「さっき、だよ」
 訂正した夫の言葉を無視して、サンダルを脱いだ。
「邪魔」
「……ごめん」
 身体をよけた夫の真横を通り過ぎて、リビングに向かう。キッチンに入って冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、振り返った。
「なんでついてくんの」
 蓋を開け、喉の奥に流し込む。
口元の水分を手の甲で拭うと、キッチンの入り口で立ち尽くしている夫を睨んだ。
 まるで見計らって玄関でわたしを待っていたかのようだ。
その、なんというか、陰湿な、女々しい行動に、嫌悪感しかわかない。自分の声に剣呑さが入り交じっているのが自覚できる。
「早かったね」
「ああ……、ノアも明日早いんだって。だから早めに解散したのよ」
 ノアとは彼女が使っていた源氏名だった。それでも話が通じるのは、夫との出会いが、彼女と一緒に働いていたキャバクラだったからだ。もともとは、客だった。わたしのはじめての客が、夫だった。
「ゆっくり、話せたの?」
「そんなことが聞きたいんじゃないでしょう」
「いや……、そんなこと、ないよ」
 ああ、気持ちが悪い。
 どうしてなのだろう。自分のものになる前はまだましだったのに。こうして自分のものになってしまってから五年ほどの年月を経て、一番近くて、一番煩わしい存在になってしまった。
「彼女は……元気だった?」
 灰色のスエット上下に、ぼさぼさの髪。ここ数年、酒の付き合いが増えたせいか腹がぽっこりとズボンの上に乗っている。
むかしはまだまともだった。
店に来る客の中で、比較的容姿はましなほうだったから、禿げあがったおじさんの接客を必死でする仲間たちをよそに、わたしは少しだけ誇らしい気持ちでいたのに。
いまではもう、うだつの上がらないどこにでもいる普通のおじさんになってしまった。
 もじもじとしている夫を横目に、ミネラルウォーターを三分の一ほど一気に喉の奥へと流し込んでから、言った。
「写真、送ったでしょう? 元気だったわよ」
 いつものバーで、写真を撮った。わざわざスマホのカメラアプリを使って撮ったのに、彼女はより美しく、わたしはまぁマシに写っただけだった。
「うん。ありがとう」
 僅かに夫の口角が、にっこりと上がる。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
「なに、満足いかないの?」
 口調が、先ほどよりもうんときつくなるのがわかった。
「なによ、したいの?」
 首を傾げ、夫を見据える。
弾かれるようにして顔を上げた夫が、怯えるような目でわたしをそうっと見返した。
 うんともすんとも言わず、黙っている。夫が口を閉ざせば閉ざすほど、苛立ちが募ってゆく。チッと打った舌打ちが、思いのほか、静まり返ったリビングに響いた。
「ッ、あ……」
 近づいていき、夫の局部をスエット越しに握りしめた。
女のような声を出して、夫が腰を引く。
「なによ、してほしいんでしょう。逃げることないじゃないの」
 壁に夫の背中を押し付けるようにして立たせると、素早くその場で、下着ごとズボンを下ろしてしまう。
「みっともない……」
 すでに熱を帯びた肉の塊は、根本からいやらしくも反り勃っていた。夫が、恐ろしいものを見るような目をして、わたしを見下ろしている。
 恐ろしいのは男の性だ。だれかれ構わずこうなってしまうのならば、愛なんて信じられない。そのくせ、抵抗するようなそぶりはないのだから余計にだ。
「期待して、待ってたんじゃないの?」
 上目遣いで夫を見てから、はんっと鼻で笑った。
見せつけるようにして唾液を鈴口へと垂らし、指で、輪郭をなぞるようにして頂きから根本までをスライドさせていった。
「うっ」
 夫の眉間に、しわが寄る。
茎を握り手を上下させる都度、くちゅくちゅと卑猥な水音が響く。
舌を突き出し、とぐろのように浮き出した血管に這って、ちろちろと舐めた。
 腰が、なよなよと遠慮がちに動き始める。
「動かないで」
 睨みつけ、片手で夫の下腹部を抑えた。
あくまで、主導権はわたしだ。好きにはさせない。
 先端からゆっくりと、喉の奥まで深く呑み込んでいく。
寝る前にシャワーを浴びたのだろう。無機質な匂いと、味だった。
 根本をしっかり握りしめたまま、緩慢な動きで、頭を振った。
舌で茎の裏を舐め上げながら、唇をすぼめて、こぼれそうになる唾液をすする。
 夫の眉間のしわが、ますます深くなる。自由にできないぶん、もどかしいのだろう。
 構わずに、ゆっくりと動く速度を上げていく。
口腔で、ぴくんぴくんと小刻みに震え、膨らんでいくのがわかった。
「あ……、ッ、ああ……っ」
 柔らかな粘膜の壁で、夫の肉杭をきつく締め付ける。
強弱をつけて、呑み込んでは吐き出し呑み込んでは吐き出しを繰り返す。
すすってもすすっても、摩擦する都度こぼれでた唾液で、口元がびっしょりになってしまっていた。
「イッ……、イク―――」
 小さな声で呻いたのが先か、喉奥までのみこんだそれが、ヒクンッと大きく脈打った。瞬間、すぐさま距離をとった。
 白濁色の体液が、勢いよくあたりに飛び散る。間に合わずに数滴、わたしの顔にかかった。
 忌々しい。
汚らしい。
憎たらしい。
「自分で拭いておいてね」
 床に、とろりとした精液がこぼれている。
 膝立ちになっていた体制を元に戻して、手の甲で汚れた顔を拭い、シンクで丁寧に両手を洗った。
 夫は、微動だにしない。
下半身を露わにしたまま立ち尽くしている夫の横を通り過ぎ、風呂場へと直行する。
 服を脱ぎ、鏡に映った自分を姿を一瞥してから、深く、ため息をついた。
 いますぐ、キレイになりたい。
化粧直しをしていないせいで、皮脂が浮きボロボロになった顔、きちんとセットしていったはずなのに、髪の毛も乱れている。
日に日に弾力が衰え、垂れさがってしまった胸に、腰回りにも最近、うっすらと肉がついた気がする。
そんな醜いわたしに、わたしを微塵も愛していない夫の精液。お似合いといえば、お似合いだった。
 夫の、欲望の匂いをすぐさま消し去りたかった。曇りガラスのドアを開け、蛇口をひねるなりまだお湯になりきれていないシャワーを、頭から浴びた。

 むかし、彼女と一緒に働いていた頃、嘘のような本当の話で、わたしたちはよく似ていると言われていた。
 背丈も、体型も、髪型もお揃いにしたかのような丸みのあるボブヘアで、ドレスの趣味も好きな色も同じだった。
 幸か不幸か、そのせいでいつの間にか「姉妹売り」されたわたしたちは、同じ客席に着くことも多く、それで仲良くなったといっても過言ではない。
 仕事のできる彼女に引っ張られるような形で、売り上げはもちろん、女の子たちからいじわるをされることもなく、店側にも大事にされ、わたしからしたら利益しかないように思えた。
 でも実際のところ、それで嫌な目にも遭うことも多かった。
似ているならばできるだろうと思われていることが、わたしにはできない。会話も、細やかな気遣いやしぐさも、もちろん違う。相槌のひとつにせよ、比較される。
どうしたってわたしは、まるで彼女をコピーした偽物のような存在でしかなかった。
 直接、酔っぱらった客に煙草の煙を吹きかけられながら、あからさまに興ざめしたような態度で言われたこともある。
「なんだ、ノアに似てると思ったけど、見掛け倒しか」と。
 見掛け倒し。
見掛け倒し――。
 その日、一日中わたしの頭の中で繰り返された呪いのような言葉だった。
 ごくありきたりな暮らしをし、平々凡々と生きてきた毎日の中で、比較的自分は恵まれているほうだと思っていた。
仲間内では美人なほうだし、モテないことはなかったし、美容にはひと一倍気を使ってきたし、男が途切れたことはないし。カースト制度の頂点とまではいかないが、中の上、あわよくば上の下くらいにはとどまっているつもりでいた。それなのに、上には上がいるのだ。
よりにもよって、彼女と。雰囲気が多少似ていただけで比較される対象になってしまった。そのせいでひしひしと自分が、特別ではない、数いるうちのひとりなのだと知らしめられた。
 最初は、憧れていた。その他大勢いた店の女の子たちと同じように。
 はじめて見た瞬間に「なんて綺麗なひとなのだろう」と思い、近づきたくて、自分から声をかけた。
接するうち、少なからず口紅の色やしぐさを、故意に真似したこともある。
 優しくて柔らかくて、控えめなのに、でも自分をしっかり持っていて、たとえ相手がお客様という立場であったとしても、自分を曲げたり屈することはなかった。
 凛としていて、いつだって正しくて、近づけば近づくほど魅せられていって、そのぶん、複雑な感情に取り込まれていった。
 酒に溺れない彼女が一度だけ、店で酔いつぶれて眠ってしまったことがあった。
 黒服が丁重に彼女の身体を抱き上げ更衣室に運ぶとき、胸の奥が少し、ちくっとしたことを覚えている。
 更衣室の、衣装が並んだハンガーラックの傍ら、ホールに置ききれずにしまってあった二人掛けのソファがあった。そこに、割れ物を扱うかのようにそっと寝かされた彼女の介抱役を任されたわたしは、しばらくの間、静かに寝息を立てる彼女の寝顔をじっと見ていた。
 本当に、綺麗な寝顔だった。
閉じていてもわかる大きな目に、長いまつげ。呼吸をするたびに、小さな白い胸が上下にそうっと動いている。近づくといい匂いがして、聴こえてくる寝息はまるで、悲し気な子守唄のようだった。こちらまで、眠たくなってくる。童話に出てくる眠り姫は、きっとこんな感じなのだろうと思った。
 実現している人間だとは、思えなかった。なぜこのひとが、自分たちと同じ世界にいるのだろうと。
彼女がここにいるせいで、自分が、すごくちっぽけなもののように扱われているのではないかと。彼女がいるからわたしは、こんなにドロドロとした、チクチクとした、複雑な気持ちになるのではないかと。
 白く、シミひとつないその滑らかな頬に、爪を立ててやりたい衝動にかられた。赤くぷっくりとした小ぶりな唇に、噛みついてやりたかった。
 そうしたら彼女は、どうするのだろう。
驚いて飛び起きて、きっと、自分が酔っぱらってわたしになにかしたのだろうと、心配するのだろう。
 そうしたらわたしは、なんて答えるのだろう。
あなたのせいで自分を卑下することしかできなくなったと、打ち明けるのだろうか。
 それとも――。
 黒く艶やかな黒髪に、指を通してみた。さらりと垂れ、甘い、花のような匂いがふわっと鼻をくすぐった。躊躇い、それでも、彼女の頬に、唇を寄せた。
触れるか触れないかわからないほどの距離で一度思いとどまり、それでも、僅かに口づけを落とした。
「このまま、死んでくれたらいいのに……」
 思いもしなかった言葉が口をついて、びっくりした。そんなふうに、思っていたわけではなかった。それなのに、どうしてそんな言葉が出たのか自分でも理解できなかった。
 そうしてから無性に、泣きたくなった。
 なぜ、どうして、自分がこんなにも浅ましい、恥ずかしい、みっともない想いで、彼女に触れたいとそう思ってしまったのか。
 傷つけたいのに、傷つけるどころか優しく、忌々しいほどに優しく、口づけを落としたのか。死んでしまえばいいのにと、そう思ったのか。
 理解したい思いと、死ぬまで知りたくもない思いが、同時に押し寄せて混乱した。
 もし彼女が浅い意識の中、わたしの言葉を耳にしていたら――、そう思うと、わたしはすっくと立ちあがり彼女を放置したまま、支度を終えて店を出た。
驚いて呼び止める黒服を振り返ることなく、逃げるようにその場を後にした。
 翌日、平気な顔をして彼女がわたしに話しかけてきてくれるまで、生きた心地がしなかった。
 ちょうどそのころだ。客だった夫に、プロポーズされたのは。
 特別な感情が、なかったわけでもない。
見栄えは悪くなかったし、大手の名の知れた会社に勤めていることも知っていた。
気が弱く頼りなさげなところもあるけれど、上司にはかわいがられていたし、好きなところこそたいして見当たらなくても、悪いと思うところもなかった。
 プロポーズを受け、すぐに夫は昇級し、めでたいことが続く最中、祝福されながら店を辞めた。
それからすぐ、彼女も自分の店を出すべく準備に入り、わたしのあとを追うようにして店を辞めた。
それでもわたしたちは、月に一度か二度、必ず予定を合わせて食事をしたり、飲みにでかけていた。
 結婚式のスピーチをしてくれたのも彼女だし、受付もやってもらった。新婚旅行でハワイにいったときも、逐一ラインで写真を送ったり、お土産のコスメは何がいいかと聞いたり、逆に、ここのお店の口コミがいいよと、日本で調べた情報を、わざわざ送ってくれたりもしていた。
 彼女が無事に店を出し、忙しいときだけでいいから手伝ってくれないかと声をかけられたとき、正直、どうしたものかと悩んだ。
 月に一度か二度会えばいいほうだから、だからこそ正しい距離間でいられるような気がしていたからだ。ようやく薄れてきた彼女に対する複雑な感情が、また色濃くなってしまうのではないかと危惧していた。
 それでも決断を下したのは、まぎれもない彼女からの告白めいた言葉だった。
「五年、五年だけ店を開けたら、閉めるつもりでいるの。三十五歳になったら。ずっとずっと働き詰めだったから、旅に出ようと思うの。少し、まとまったお金をもって。ずっと、夢だったの。それで、ゆっくり休むのよ」
 そのあとのことは、決めてないと言った。将来の不安がないわけではないけれど、きっとなんとかなるだろうと、彼女らしく楽観的に笑っていた。
 そんな夢があるなんて初めて聞いたし、そもそも、本当に実現するのかわからないし。それでもわたしはそのとき、ほんの一瞬、思い描いたのだ。
 つばの大きな帽子をかぶった彼女が、白いワンピースを着て船に乗っている。
潮風を浴び太陽に目を細めながら微笑んで、そして、その姿が遠くなってゆく。
 どんな理由かはさておき、船は大きな事故に遭い、冷たい夜の海に、その日のうちに沈んでゆくのだ。
 彼女の伸びた長い髪が、海中に漂い、白い四肢はなおのこと青白くなって、閉じた睫毛を色とりどりの魚たちがキスをするようについばむ。
 そうして、永遠に戻らない。
ゆっくりと海底に沈んでいって、嘘のように美しい姿のまま、魚たちに愛され、泡となって消えるのだ。わたしの醜い想いなど露知らず、わたしを心からの友だと、そう思い込んだ彼女のままで。
 酷く残酷で、酷く美しい妄想だった。

「うん、え? 明日?」
 キッチンに立って、夕飯の支度をしている最中だった。
彼女からの着信を受け、スマホを耳と肩の間に挟みながら、我ながら器用に、パスタをゆでていた。
「そう、明日。ごめんね、本当に急なんだけど」
「え? それで、いつから旅立つの?」
「来週の頭なんだけど、それまでちょっと忙しくて時間が作れそうにないから。旅に出る前に会っておきたくて。休日でしょ? 夫婦の邪魔にならなければ、ちょっと、お邪魔したいんだけど」
「わざわざ家まで来てくれるの?」
 珍しいこともあるものだ。
引っ越し祝いで一度家に遊びにきたことがあるくらいで、基本的にわたしたちが会うのは、いつだって外だった。
「うん、ご主人さえよかったら」
「ああ……」
 チラリと、リビングのソファにいる夫を、一瞥する。
テレビを観ているふりをしながら、どうせ、わたしたちの会話に耳を傾けているのだろう。
「大丈夫よ。どうせどこにも行く予定ないし、旦那も、久々にノアの顔が見られて喜ぶわ、きっと」
 そう、たぶん、踊りだしたいくらいに。
「本当? そういえば長いこと会ってないもんね。あ、松田さんは元気かしら」
 松田とは、夫の元上司のことだった。
ノアをえらく気に入って指名していたお客様で、店に通いはじめた頃は、いつもひとりだった。ぶよっとした体形の禿げた醜い中年男で、常に全身から汗をかき、加齢臭をまき散らしていた。
それでも「人となりがいいし、会話もセンスがあって面白いのよ。べたべたおさわりするわけじゃないし、いいひとよ」と言って、彼女は嫌な顔ひとつせずに接していた。
 プロだなと、ずっと感心していた。
性格うんぬんではない。わたしならば、隣に座るのも手を握られるのもごめんこうむりたい。
大金を落としてくれるわけでもなく、ごくありきたりな会計にしかならない客でそこまでの気持ち悪さを持ち合わせている客は、正直、わたしならいらない。
 そんな思いとは裏腹、そのうち松田さんはノアと仲良しのわたしを、席に呼んでくれるようになった。
「ユリちゃんにもお客さんを紹介しなくちゃな」と言って、連れてきたのがいまの夫だった。
 連れてくる奴もどうせ同類だろうと予想していたわたしは、思いのほか、連れ立ってやってきた青年のその爽やかな見た目に、驚いた。
 夫のほうもまた、わたしとノアを見て「似てますね」と驚いた顔をしていた。
悪ふざけをしたノアが実の姉妹なのだと嘘をつくと、それを真に受け、つぎに店にやってくるまでずっと信じていた。
そこまで来ると、誰が真実を告げるのか、誰かが口を開くまで誰もが沈黙していたのだけれど、たまたま松田さんが席を外したときに、わたしの顔をまじまじと見て言ったのだ。
「ああ、でも、よく見たら全然似てないですね。ユリさんのほうが目の形が切れ長だし、鼻筋も高い。唇の形もしゅっとしてる。あと、笑ったときに右側にえくぼができるし、あと、眉毛がちょっと困ったみたいになる。八重歯も、それから―――」
 それ以上は聞いていられずに、思わず片手で、彼の口をふさいでいた。
 よく、見ているひとだと思った。
ちゃんとわたしを、見てくれているのだと思ったのだ。
「よっぽどユリのこと、好きなのね」とノアが笑って言ったとき、少し、いい気になった。いい気になって、その通りなのだろうと信じた。

「明日、ノアが遊びに来るから」
 電話を切ってからリビングに向かうと、出来立てのアサリのパスタをテーブルの上に置く。
夫と距離をとってソファに座ったわたしを、夫は振り向きもせずにフォークを握った。
「う、うん」
「うれしい?」
 返事もせず、フォークにパスタを巻き付け、ほぐし、巻き付けてはほぐしを、繰り返している。
「ねえ、うれしい?」
 身を乗り出し、追及する。
それでも夫は黙ったまま、なにか言いたそうに、パスタをフォークで弄んでいる。
「ねぇ、殴るわよ?」
 苛立つ。
苛立つのなら、聞かなければいいのに。
なにも気づかなかったように、知らないふりをしていたらよかったのに。
 ふとしたときに、気づいてしまった。
 決定的なことはない。
 けれど、彼女と会った日の写真を見せていたとき、もっと撮らなかったの? と聞いてきたり、上司に写真を見せたいから、送ってくれと言った。
 出張先の土産を、いつも世話になっているからといって彼女のぶんも買ってきたり、いつもはたいして興味のなさそうな顔をして聞いているわたしの話も、彼女の話となると、目を輝かせていた。
 当初のことを振り返ってみて、なるほど、と納得してしまった。
 彼は、わたしを注意深く観察していたわけではない。
注意深く観察していたのは、わたしではなく、彼女のほうだったのだ。
 だから、わたしと彼女の違いに、気が付いた。具体的に、どこかどう違うのか、どの部分が、どう異なるのか。
 それで、妥協したのだ――。
 似ているけれど異なる。異なるけれど似ているわたしを、妥協で、選んだのだ。
 わたしのそばにいれば彼は、ずっと彼女に近い存在でいられる。だから、きっと、彼女の偽物のような存在であるわたしを――。
「君は―――」
「え? なに? 聞こえないわ」
 夫が、静かにフォークを置き、わたしを見た。わたしを見て、怯えるように、それでいて憐れむような目を向けた。
「君は、君は俺のことよりも、彼女のことが好きでたまらないんだろう!」
 はじめて聞くような、大きな声だった。
「俺が君を愛しているとは、思わないのか!? 君の、と、友達だから、俺が気にかけてるだけだとは、思わないのか! 君は、君はいつも、彼女のことになると、俺といるよりも……素敵な顔をするから!」
 上ずって、語尾が裏返る。肩で息をして、握りしめた拳を震わせていた。
真っ赤な顔をして、夫がわたしを睨んでいる。睨んで、そして、気まずそうに目をそらした。
 驚く。
あっけにとられ、ちょっと笑ってしまった。
「もう勝手にしたらいい!」
 子どものような捨て台詞を吐き、立ち上がった夫がリビングを出ていった。
廊下をドスどすと足音を立てて歩き、すぐに寝室のドアが勢いよく閉まる音が響いて聞こえてくる。
 手つかずのままのパスタを見て、皿ごと自分の目の前までもってくると、仕方がなく口に運んだ。
 ああ、なるほど。
なるほどね、そういうことか。
なんだか、やっとわかった気がする。いや、たぶんずっとずっとごまかしながら生きてきただけで、誰かにこうやって指摘されるまでは確信したくなかっただけなのかもしれない。気づきたくなかったのかもしれない。
「ふふ……」
 食べながら、思わず笑みがこぼれてしまう。。
 ―――好きでたまらないんだろ!――
 ああ、そうか。そういうことよね。
 そりゃそうだ。そうじゃなきゃ、惨めな思いをしてまで傍になんていない。
そうだよな、やっぱり、そうなんだろうな。
「ふふ……ははっ―――」
 声に出して笑い、ついで、泣き出しそうに熱くなった目頭を、指でぎゅっとつまみ天井を睨んだ。
 もしかしたら夫に、愛されているのかもしれない。
そんな衝撃的な事実よりももっと、こんなにも女らしく女として生まれてしまった自分を、はじめて恨めしいと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?